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2006年10月10日 (火)

それは個人の問題なのか

私の住む北東北は自殺者が多いらしい。青森、岩手、秋田で1位から3位を毎年争っているようだ。そのため、自殺予防講座なるものが開催されて、効果が上がっているなどというニュースを見た。

たしかに、同じように不幸な状況で「死にたくなる」東北人特有の性格ってあるのかもしれない。暖かい所に住んでいたら、もう少し楽観的に考えられるのかもしれない。

自殺予防講座、悪いことではない。前向きに生きようと教えてくれるのだろう。

でも、自殺予防やニート対策、フリーター対策にそれぞれ予算がついたりすると、そんなふうにお金をばらまいてもたいした効果がないのではと、いつも思うのだ。国や社会が変わらないと、いくら「やる気のある」人間を作ったとしても長続きするかどうかあやしい。

そんなことを考えていたら、上野千鶴子の『生き延びるための思想』で次のようなことが書いてあった。

私は長いあいだ、「暴力をふるう夫」が「暴力をふるわれる妻」にくらべて、なぜ社会的にも個人的にも病理化されないのか疑問を持ってきた。心理学やカウンセリングのなかでは暴力をふるわれながらその状況から抜けだせない妻が、「共依存」の名のもとに病理化」されてきた。もしかしたらそれは「心理の病」ではなく、たんに「離婚したくてもできない」という「制度の欠陥」にすぎないかもしれないというのに。【注】

【注】システム欠陥の「心理学化」や「病理学化」は、カウンセリングブームの大きな問題である。それは社会に帰責するべき問題を個人に帰責することで、社会の変革よりは個人の適応を図るという保守的効果をもたらす。(「プライバシーの解体」より)

自殺者が3万人超えたまま減らない。だからメンタルヘルスだ、前向き志向だと心の専門家を増やし、予防に努めても社会が変わらないと大した効果が上がらないような気がする。なぜなら自殺者の多くが経済的理由を抱えているからだ。リストラされた、老後の生活苦、介護疲れ、子どもの障害。お金にさえ困っていなければ、なんとかクリアできるかもしれない。でも、ほんとうに困っている人は、講座やカウンセリングへ出かけられないだろう。講座に出かけるのは、だいたいがまだ元気さが残っている人なのだ。

ただ、お金のないことも今の時代「自己責任」だとか言って、だんだん国は見向きもしなくなるかもしれないという恐れが大きい。はっきり言ってこの国に希望が持てないから死んでいく人が多いのだということを政治家は恥ずかしく思って欲しいくらいなのだ。

いじめの問題でも同じだな。カウンセリングを受けるのは、いじめられている子。いじめられる子の適応が問題にされる。

息子の学年に、近くの学校でいじめられて登校拒否の子が転校してきた。その子は今はいじめもなく普通に学校生活を送っている。そんな話を息子から聞くと、いじめられるほうに問題があったのではなく、たぶんその学校、またはクラスという社会のあり方に問題があったのではと部外者は思うのだ。

もちろん、個人への心理的援助は必要だ。しかしそれだけでは片手落ちで、社会のあり方だって変わらないと自殺者は減らないだろうな。

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