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2007年1月の投稿

2007年1月31日 (水)

賞味期限

不二家問題で賞味期限が問題になっているが、普段自分の家の買い物では、賞味期限は気にしない。大食い息子たちがいるために買ってもすぐになくなる。製造の新しい牛乳なんて買ったって、明日にはないのだから、買い物の時に賞味期限を見たりしない。

でも、ヘルパーの仕事で買い物をするときは、賞味期限を気にする。お豆腐でも納豆、ヨーグルトでも、とにかく棚の奥のほうから新しいものを取り出す。利用者さんがそうしろというのではないが、高齢者は食べる量が少ないし、一人暮らしがほとんどなので、なかなか食べきれないからだ。

でも、高齢者の方はあまり賞味期限を気にしない。賞味期限を過ぎても平気で食べる。捨てるなんて「もったいない」ことなのだ。でも、やはり手が出なくて、冷蔵庫の中は腐りかけた物で埋まっていく。その、もう食べれないものを利用者さんに納得してもらって捨てるのも私たちの仕事だ。「あらら、このキャベツはもう料理できないですよ」「牛乳から変な匂いがする」と大げさに驚き、利用者さんが考えたりしないようにゴミ箱に入れる。

それでも、「大丈夫だ」と言い張る利用者さんもいる。「玉子焼き」というリクエストだが、卵の賞味期限がとっくに過ぎている。でも、利用者さんは「冷蔵庫に入っているんだから大丈夫」「私の今までの経験から大丈夫」と言ってきかない。たぶん大丈夫なんだろうと、作ったこともあった。作りながら、食中毒になりませんようにと祈った。その後、お腹も痛くしなかったから、利用者さんは「私の言うとおりだろ」と思っているだろう。そのことを先輩に相談したら、「卵を割って見れば、悪くなっているかどうかわかるでしょう」と言う。そうなのだろうか。でも、食中毒予防のためにも「賞味期限が過ぎたものは使わない」という規則を作って、利用者さんにもわかってもらうようにしたほうがいいような気がする。

だいたい、高齢者の方は冷蔵庫を過信している。しかし、冷蔵庫の中というのは個人的な場所でもある。子供に「よその家の冷蔵庫を勝手に開けたらいけない」と注意するように、人の冷蔵庫の中を勝手にいじるのは気がひける。でも、どうしても許せない冷蔵庫があった。きれいな台所なのに、冷蔵庫は物が詰まりすぎで、開けるたびに嫌な匂いがした。夏に、利用者さんに「食中毒が心配だから、一度大掃除をしたい」と申し出て、納得してもらい。利用者さん立会いのもと大掃除をする。

いつのだかわからないポテトサラダだったようなかたまり、芋天の残り半分、腐った漬け物(臭いの元凶)などがでてくるでてくる。「これは捨てますよ」といちいち確認してもらって捨てる。もちろん「それはまだ捨てない」と言われることもあるが、冷蔵庫の中を掃除し、消毒し、きれいになって利用者さんも喜んでいた。これからは「詰め込みすぎない」と誓い、わりときれいに使っている。

こういう冷蔵庫の整理に手や口が出せるのは一人暮らしの利用者さんの場合だ。家族と暮らしている方なら、余計な口出しはしてはいけない。整理癖がうずいても見ない振りをするしかない。

また、利用者さんはヘルパーに何かをあげたがる。でも、物をもらうことやお茶を飲むことも本当は禁止である。ただ、飴玉2,3個とか、何かを手渡したい人がいて、「子供じゃないんだから」と思っても受けとることもある。

しかし、この手渡される物も気をつけないといけない。「車の中で食べて」と仏壇にあったまんじゅうを1個手の中に置いてくれる。しかし、いったいいつから置いてあるまんじゅうだかわからない。この間は、帰り際ヤクルトを2本、ポケットにつっこまれた。後で見たら、賞味期限が去年だった。それでも大丈夫なのかと匂いをかいだら、すえた臭いがした。これを利用者さんは飲んでいないだろうかと心配する。でも、飲まないからくれたのかもしれない。お菓子の袋を開け、半分ぐらい食べて飽きたのか、ヘルパーに渡す人もいる。主任は、「本当に失礼よね。でも、自分では捨てられないから、代わりに捨てると思ってそれは持って来ていい」という。それにね。80、90代の高齢者から見れば、中年のヘルパーだって子供みたいなものなのよ。自分の子供たちも60代なのだから、40代なんて若く見える。子供になにかおやつをあげたいというのは、これはお年寄りの習性なのだ。山に住んでいたときも、お年よりはうちの子に必ず何かお菓子を握らせる。村にひとつある雑貨屋さんに買い物へ行っても、そこのおばさんは店のお菓子をただで子供に握らせる。こちらは売り物なのにと遠慮するが、とにかく何か子供にあげたいのだ。ただ、賞味期限を気にしないだけで、悪気はないのだった。

先日は、帰り際にコップに牛乳を注いでくれ、渡される。「牛乳が配達されるけど、あまってしまうから飲んでいって」と言われた。目の前に差し出され断りきれなくて、牛乳の一気飲みをする。私は牛乳を飲んでお腹を壊す体質ではない。ところが、事務所に帰って書類を書いていたら、胸がむかむかしてきた。「牛乳飲まされた」と言ったら、先輩ヘルパーが「賞味期限切れていたんじゃないの」と言う。だって、コップにつがれて確認できなかったし、「これ大丈夫ですか」と失礼なこと聞けない。その午後、久しぶりにお腹が痛くなって大変な思いをするはめになった。やはり、賞味期限は確認しなければ、牛乳を断る勇気を持たないといけないと反省する。

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2007年1月28日 (日)

試験勉強

放送大学は今学期でやめて、4月から別の大学へいくので、放送大学の単位をもう取らなくてもいいようなものだが、今日から来週まで3科目の試験を受ける。今学期は「高齢者福祉論」の1科目しか受講していなかったが、前期の「家族のストレスとサポート」と「心理学研究法」は、クラス世話人として忙しくて勉強する暇がなかったので、試験を放棄したから今学期再試験になったのだ。

といっても、放送も視聴していない。年が明けてから、仕事のないときに放送大学まで行って、「高齢者福祉論」だけは目を通す。スウェーデンやドイツや日本の施設(老人世帯のアパートやケアハウス、特別養護老人ホームにあたるもの等)が紹介されていたが、まさに垂涎ものだった。海外の施設は環境、建物や部屋の広さ、うらやましいかぎりだ。日本で紹介しものも海外には劣るがなかなか快適そうだ。担当教授も「こういうところなら、私も入ってみたい」と言っておられたが、いい生活の質や安心が保たれるなら老後も悪くない。ただし、日本の場合はすごくお金がかかる。老後に安心と快適を買うためのお金がいる。私には無理だな。

放送授業ではそういう映像ばかり見せられた。放送の中では、高齢者の貧困問題もほんの少し触れられていたが、実際の所、公営アパートに一人おかれた高齢者を訪問してまわっている身には、あのような施設は夢でしかない現実がある。清潔を保つのさえ難しい。いい理念とサービスがある施設や高齢者アパートが全国誰でも利用できるような道がこの日本でできあがるのだろうか。

あと、海外の医療と福祉の連携プレーなんかもうらやましいシステムだ。ヘルパーをやっていても、担当者会議を開くことはめったにない。ケアマネジャーとも話し合いはできない。前の事業所で、お年寄りがケアマネージャーにお願いしたいことがあって、それをうまく伝えられないのでヘルパーが代わりに電話してあげたのだそうだ。そうしたら、ケアマネが「なんでヘルパーごときに私が指示されなくてはいけない」と怒ったそうで、主任から「なんでも直接ケアマネと話さないで主任に通すように」とのお達しがあった。それを聞いて「なんだかな」と思った。今の事業所は和やかなケアマネとの関係だが、話し合うこともないし、訪問看護士やリハビリの先生とたまにすれ違いざまに様子を聞けるぐらいだ。でも、ほとんど訪問時間が違うので情報をもらえることもない。他のヘルパーさんとも訪問時間のずれで、顔を合わせない人もいる。でも、聞きたいことがあるときは、主任にも聞くが、実際に作業しているヘルパーさんに聞きたいときもあるので、つかまえて話をしようとする。電話で話しているヘルパーさんも多いみたいだが、電話は苦手だ。ある先輩から電話があり、少し難しい利用者さんの様子ややり方を聞かれたが、その後に愚痴や噂話を言い出した。それから、電話での情報のやりとりは駄目だと思った。やはり、会議として皆で意見を言わなければいけない。ただ、登録ヘルパーは訪問時間しか時給がでないので、主任のほうも時給も出ない会議をいつもするわけにはいかない。また、時給も出ない会議や研修に出てこないヘルパーさんも多い。なんの義務もないからだ。やってみると、登録ヘルパーという制度は国には安上がりだが、介護の質の問題では難点が多い制度だとつくづく思う。

こんなこと書いていないで、勉強しなくてはいけない。今日は「高齢者福祉論」の試験。といっても、マークシートではなく小論文形式みたいなので、何か書けばいいやと思っているのも確かだが、一応教科書を読んでおこう。もう単位取っても意味ないのだが、お金を払ったのだからもったいないと思うのが貧乏性なんだな。

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2007年1月26日 (金)

子供は変わっていない

教育基本法も変わり、ゆとり教育もやめるような提言が教育再生委員会から出て、子供たちの学校環境もまた大きく変わるのかしら。大変なのは子供たち、それから先生だなと思う。先生を評価する立場にPTAも加わるなどという話も出ていたが、絶対反対だ。親なんてひとりひとり考え方が違う。まずわが子がかわいい。客観的な目がないから、数回の授業参観で評価できるはずもない。また、仲良しグループがあり、そこで流れる噂はまったく根も葉もないものだったりする。そのグループで言われていることを私が聞いてびっくりしたりする。先生への好き嫌いが確かにあるような印象を受けた。

なんだか、今の子供は駄目だ。意欲がない。ゲームばかりしているとか、とかく非難の声ばかり聞こえてくるが、そうだろうか。毎晩、息子たちから学校の話を聞くと、まだまだ「ちびまるこちゃん」の世界が繰り返されていて、「本当にあんたたちバカだね」と、言ってしまいたくなる。息子はゲームはしないが、親友はゲームマニアだ。だいたい親が若くてゲーム好きだから仕方がない。でも、ゲームだけしているわけではないし、ユニークでお人好しだ。ゲーム好きでひきこもって暗い子供たちというのは、どこかの一部から拡大解釈されたものだろう。それとも、ここは北の地方都市のはじっこのニュータウンだから、まだまだ子供たちが素朴なのか。東京ではもっと子供たちが変わって来ているのだろうか。

もし、子供たちが変わってきているのなら、それは子供のせいではなく大人のせいだ。子供は変わっていない。大人が変な風に子供に圧力をかけ過ぎているのではないか。

教育環境が大きく変わって、この地方の片隅にも大人の論理の圧力がひどくなるのではないかと心配する。人を蹴落としても競争に勝った者が成功者という価値観は、他人をライバルとしか見られなくなる。親は成功者にするために、優秀な人材を作るためにやっきになる。

なんで、子供たちをこねくり回すようなことを平気で大人はするのだろう。あの教育再生会議のメンバーは成功者たちだ。とても子どもの気持ちがわかるとは思えない。ヤンキー先生までどうしてしまったのか。いじめっ子を登校停止にして、何が解決するのか。それが教育者のやり方ではないだろう。

子ども時代の大事な時間を、もう少し静かに見守ってあげられないものか。「ああー、今日も楽しかった」と、言える日をいっぱい作ってあげるのが大人の役目なのに、子供たちに課題ばかり与えている。その上で、意欲なんて引き出せないに決まっている。いつもいい子に振る舞う技術だけ覚えて、自分から立ち向かう技術は鍛えられない。そう言うと、意欲のある子、生きる力をつける教育をというが、そんなのほっとけばいい。子供たちは自分で身につけて行くのだから。大人がいろいろ口を出すから、やる気がなくなるのだ。そうして昔のように親に反発するより、親に従う方が利口だと考える。親の価値観を生きようとして、息が詰まる。

政府のやることは、よくわからない。子どもの静かなバカな時間を守っていきたいと思うこの頃だ。だんだん、24時間子供の生活が監視される世界になるのではないだろうか。大人の世界で、密告法などができれば、子供たちにも影響する。ますます、子供たちに圧力をかける結果になりそうな教育改革に心配する。

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2007年1月23日 (火)

かわいい帽子

昨日の午後、散歩がてら郵便局→銀行→八百屋さんと歩いてまわっていたら、後から「すみません」とかわいい声がしてくる。振り向くとランドセルを背負った小さな女の子がふたり。何かと思えば、「その帽子とってもかわいいですね」と言われた。

帽子は、オレンジの毛糸に黒、白、黄色で編みこみしてあり、耳あてがついて、長い紐がたれているもの。何年前か一目惚れして買ったものの、かわい過ぎて似合わないような気がしてしまっていた。いつもは、黒か茶系の毛糸の帽子をかぶっている。それがどうしたことか、この冬はそのオレンジの帽子がかぶりたくなった。かぶってみると似合う・・・ような気がする。そうして、誰もが帽子を「かわいい」と誉めてくれる。明るい色を身に付けたくなるって、年とったということかしらん。

それから、女の子たちは「マフラーもかわいい」と言ってくれた。マフラーは黄色。それから「コートも素敵」と言ってくれる。コートはダークオレンジの作業着風。「子供みたい」「名前なんていうの」「どこに行くの」などいろいろ聞いて来るので、私も「何年生?」「名前は?」と聞き返し、しばらくおしゃべりしながら歩く。分かれ道で彼女たちは、「やっぱり、その帽子がかわいい」「また会おうね」と言って、手を振って行ってしまった。女の子ってかわいいものだ。うちなんか息子なんかまず帽子なんて誉めてくれない。この間、肩ぐらいまで伸びた髪を、面倒だと耳も丸出しのショートカットにした。でも、息子たちは何も言わない。食事も終わる頃になってひとりが、「お母さん、髪切った?」とのたまう。「バカやロー。これだけ切ればわかるだろうが」と心の中で言う。

遠くの八百屋さんに着く頃には、雪まじりの雨になり、帽子さえかぶっていれば傘はいらない。八百屋さんでは、いろいろな物を買いすぎた。キャベツ、ジャガイモ、人参、小松菜、ピーマン、セロリ、ネギ、豆腐、1匹30円のイワシを10匹(魚屋さんもかねている)、切り昆布、キムチ、バナナ。まだ、さつまいもやりんごも買いたかったが、歩いて帰らないといけないのでやめた。帰りは両手に荷物を抱え、雪の中を帽子のありがたさを感じながら帰ってきた。

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2007年1月19日 (金)

考え方の違いではすまされない

やっと子供たちの冬休みが終わった。北国の冬休みは長い。自由研究もある。千葉で育った私は自由研究は夏休みのものだったのに、ここでは、夏も冬も自由研究とか工作をしなくてはいけない。なんだか冬ぐらいゆっくりさせればいいのにと思うのだった。(親も大変だもの)。

お正月は、わが家のセカンドハウスの山の家へ行けなかったので、冬休みの最後の幾日かを山で過ごしてきた。いつもなら駐車場までは牧場のトラクターで雪かきしてもらい、駐車場からは雪をかきかき、やっと玄関にたどりつくというのに、雪はうっすら白く積もっているだけだった。驚きの冬。村の人はこの夏の冷害や水不足を心配している。「こんなに雪がない冬はいついらいだろう」と考えると、1993年が雪のない冬だったそうだ。そうして、その夏は東北では米が取れず、お店で米が買えなくなった年だった。雪がないのは楽だけど、降る時に降ってくれないと、少し不気味ではある。

と言う話ではなくて、年末から年が明けて、ヘルパーをしていると、お年寄りたちが政府の論調に染まっていることが気になる。いろいろなニュースが流れている中で、自殺や残忍な事件が多くなったのは「今の教育が悪い」「家庭が悪い」「自分たちは苦労した。今の人たちは甘やかされている」「母親は家にいないと駄目だ」などなど、評論家のような言葉を吐いて納得している。

山の家へ帰ると、近所のおじさんが飲みに来る。そのおじさんのことは大好きなのだが、やはり同じことを口にする。山の家にいる間、近くで母親が幼い子供をふたり刺して、たぶん自分も死のうとしたらしいが、死に切れず重態で無理心中ではないかというニュースが流れていた。おじさんにはその事件も、最近世の中が悪くなった例でしかない。でも、私と考え方が違うのは、おじさんはその母親の個人の教育や家庭環境を問題にする。私は母子家庭で働いても人並みに暮らせず夢をもてない現実にためいきをつく。

だから、おじさんに「それは違うよ。母子家庭がちゃんと働いても少しの収入しかない現実があるんだよ」と言いたかったが、黙った。だって、おじさんの娘さんも母子家庭になり、おじさんとおばさんは多大な援助をしているのだ。娘さんもあまり収入の高い仕事はしていないからおじさんの援助がなければ生活できないはずだ。しかし、そんなこと指摘してもお互い暗くなるだけだからやめた。おじさんは、「うちの娘はがんばっている。一家心中するような母親とは違う」と思っていればいいことだ。私は、おじさんの娘も私自身も少しのずれで一家心中を考える母親と同じ場所にいるかもしれないと考える。

ときどき、「なになにが悪い」と言う人たちをうらやましく思う。そう言って安心してしまえるから。そうして政府の行なう「改革」が世の中のためになると思っている。私の方はその「改革」で不安になるというのに。

考え方の違う人たちを説得するのは難しい。お年よりはそういう考えできたのだから。そうして戦争、戦後の苦しい時期を歯を食いしばって生きてきて、貧乏を越えてきた。だから、今の若者や子供がふがいなく思うのだろう。そうして昔の方がいろいろな事件も少なかったと思い込んでいる。でも、実際は殺人事件や少年事件はおじさんが若いころの方が多かったという統計もあるが、お年寄りの美化された記憶を修正するのも酷な話なのかもしれない。

考え方や経験の違いだから仕方ないと思うが、それではすまされない。選挙があるからだ。彼らは真面目に投票に行く。そうして自民党に票を入れるだろう。世の中を良くしたいと思って。お年よりは「戦争だけはだめだ」という人は多い。ひどく馬鹿らしいことだったと思っている人も多い。その思いがあるのに、今の世の中の事件に目を奪われて「若い者はけしからん」という論調に流れている。だいたいがテレビしか観ていないのだから、影響は受けやすい。困ったものだ。今度の選挙だってこういう人たちの気持ちを動かすことができなければ、また自民党が勝つだろう。お年よりは安心したいのだ。今の世の中に。次世代のためというより自分の安心を選ぶという人は多い。政治家もそうだし、そう言う意味で、「自分のことしか考えていない」というのは、若者だけではない、政治家もあらゆる年代も自分が安心ならいい、自分以外の人がいじめられているのは、その人が悪いからと思いたいのだ。安部首相とは違った意味で日本人の倫理感がおかしな方向へいってるのかもしれない。新しいいろいろな人を受け入れられる価値観を模索していかなければいけない。野党はそれを国民にしめすことができない。これでは負けるよ。自民党の価値観に頼りたい人たちを多様性へと持っていかなくては、庶民は自分の首を自分で締めているようなものだ。

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2007年1月12日 (金)

親の言うことは半分に聞いておけ

「親の言うことは半分に聞いておいたほうがいいよ」というのは、私が息子に言った言葉。子が親を殺す事件がニュースに出たときに言ったのかもしれない。親からのプレッシャーや身体的暴力はないけど精神的な暴力など、程度の差は大きいだろうけど親は子どもの上に君臨している。

「親も未完成な人間だからね。そのときの気分でものをいうから」とも息子に言う。これでは、親が馬鹿だから許してね。子供が大人になってねと言っていることだなと思った。親は馬鹿だからと言っても、子供にとっては親は絶大だから、親のほうがまず気をつけなくてはいけないことなのだが、私もときどき怒鳴る。

机に向かっているとき、「お母さん、お母さん」と来る。だいたいは話を聴くが3回に1回ぐらいは、「今、忙しいんだから、自分で考えてよ」と追い払っている。手を止めて話を聴くか、追い払うかは、考えれば忙しさ度が大きいからというより、自分がイラついているからなのだ。だから、「うるさくしないでよ」と怒鳴るのは、お母さんの方が人間できていないからと認めてしまう。

親なんて絶対じゃない。親も悩んでいる。子供だって親が絶対であったほうが楽だという面もあるかもしれない。全部自分で考えてというのはしんどいかもしれない。でも、親の支配下にいるのもせいぜい高校生ぐらいまでだ。その後は自分で生きていくしかないから、親は当てにならないと思われていた方がいいと思う。

「大学行かないで、働くといっても仕事ないから職人になるというのもいいじゃない。そうしたら、あなたの学資保険が浮くから少し外国に行かせてもらおう」「だめだよ。俺のお金だろ」「馬鹿ね。親のお金よ。好きにしてもいいのよ」というから、この親は大学なんか行くし、子供のためにお金を貯めるという発想がないようだと最近思っているかもしれない。「子供に期待してもリスク大きいから、自分に期待します」と言ってみたりする。

親子関係は難しい。今は自分のことうまくやっている方だとは思うけど、将来どうなるかわからない。なぜなら、小さいときは自分の母を好きだったのに、今は話すだけで暗くなってしまう。もしかしたら、絶大なあの母の自信を憎んでいるのかもしれない。私だって憎まれることもあるかもしれない。

親は完全ではない、それを親自身がよくわかって、子供に命令したり理想を押し付けようとするとき立ち止まって冷静になってみないといけないなと、ときどき反省してまた怒鳴っている。

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2007年1月10日 (水)

広告でいつも思うこと

昨日の新聞に1面広告、たぶん「温暖化対策を皆でしよう」という政府広告なんだと思うけど、安部首相が出ていましたよね。すぐに頭に浮かんだことは、「この広告にいくら税金を使ったのだろう」ということだ。この広告で温暖化対策が進むとも思えない。あまりにもあちこちで言われる初歩的対策しか載せていないし、それよかもっと考えることあるんじゃないかなぁと首をひねるだけだった。

よく、貧しい国の子供に「1日のあなたのコーヒー代で、ワクチンがどれだけ買える」とかの募金の訴えを見たけれど、そのときも「まずこの広告費を募金したらいいのではないか」と思ったのだった。赤い羽根のテレビコマーシャルも多い。赤い羽根は町内会(半強制的)、学校でも集めていて、街頭募金もしているから、赤い羽根募金知名度は国民に浸透していると思うので、あんなに広告しなくてもいいのではないだろうかと思う。あの広告費を募金すればいいのにと思う。

広告を出す人たちは、自分のお金を使っているわけではないし、広告会社は儲かるから、これも仕事を作り出すための事業なのかしら。

景気が良いっていっても、一般国民はまだまだ恩恵にあずかれない。先だって子供たちを連れてスキー場に行っても、おにぎりを食べている家族、車の中でカップラーメンを食べている家族多かった。私もお弁当を持っていった。だってレストランで食べると高いもの。それじゃなくてもリフト代高い。スキーはお金かかると言っても、ここ雪国では冬のレジャーはスキーが面白い。子供にやらせてあげたいと思ったら、家族連れはどこかで節約するのである。

それに比べて政府の無駄遣いが目にあまる。借金をしているのならまず自分自身が節約して欲しいものだと、なにか反感を持つ政府広告だった。

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2007年1月 5日 (金)

「規範意識を高める」って?

「規範意識を高める」など「規範」という言葉が目につくこの頃だが、わが家の食卓で「規範って何」と疑問が出た。たぶん、規律とか守ること、道徳とかに関係しているんじゃないか。「言われたことを素直に守ることだよ」という話になったのだが、正しいのかどうか。

『広辞苑』には、「規範 ①のり。てほん。模範。 ②[哲]のっとるべき規則。判断・評価または行為などの拠るべき基準」と書いてある。やはり、誰かが決める基準に合わせて行動する意識を高めるということではないか。よく考えると恐い言葉でもある。

その他、「豊かな人間性」「豊かな自然」の「豊か」も気になる言葉だ。あと「日本人のアイディンティティ」ってなんだ。富士山とか菊人形なのかしら。最近、「アイディンティティ」とは、優越感を持てる自分になることという解釈になっていないだろうか。「アイディンティティ」という言葉を政治に使うのはよくないと個人的に思うのだが、どうなんだろうか。最近の政治家の言葉、新聞の言葉は流して聞いたり読んだりすればいいのだが、立ち止まって考えると、いったい何を言っているのかわからなくなる。

 そう言えば去年NHKの「その時歴史は動いた。柳田国男・遠野物語秘話」という番組の再放送を観た。秘話というほどの話はなくてがっかりしたが、作家の立松和平氏が出ていて、最後に日本がどこへ行っても同じようになってしまったことを嘆き、「日本人のアイディンティティを守らないといけない」というようなことを言っていた。そのときから、「アイディンティティ」という言葉使うなよ、と思ったんだ。その言葉はもっもらしい響があるだけで、簡単すぎる(本当は難しいのだけど)。もっと自分の言葉で何を守りたいのか語ってほしい。作家なんだから。しかし、よくテレビに出る立松和平という作家は読んだことないが、テレビではたいしたこと言わないので、どこがいいのかさっぱりわからないのだった。

なんとなく聞き流している言葉だが、これら言葉には恐ろしいものがある。誰もが「日本人のアイディンティティ」と訳もわからず使い、ただの懐古主義や優越感と取り違えているかもしれない。パターン化された言葉を使い、相手の言葉は締め出す。そういう相手とどう話し合っていいのだろうかなどと考えながらも、朝になってしまった。

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2007年1月 3日 (水)

買い物ウツウツ

あけましておめでとうございます。

今日は3日で正月も終わり。私も明日から仕事でほっとするのだ。年末年始、特に年末って嫌い。何でかって言うと、もちろんやらなければいけない家事が多くなる。もちろん大掃除などしないが、買い物はいっぱいしないといけない。買い物嫌いなの。あれも買ってこれも買って、必ず忘れるものがある。

去年のクリスマスには、とうとう子どものクリスマスのプレゼントも買わなかった。毎年、本とお菓子だったけど、長男はレース用のスキー一式買ってもらっていたし、扁桃腺の手術にお金がかかるとわかっているから、「クリスマスは何もいらない」と言ってくれた。「あいつだって、もうサンタさんいないこと知っているよ」と弟のことを言うので、もうクリスマスプレゼントはいいかと、買い物しなかった。本選びもけっこう時間がかかる。面倒だ。しかし、クリスマス当日、次男は、もしやプレゼントあるかもと探し回っている。どこにもないのでがっかり。ちょっと「何か買っておけばよかったかな」と心が痛んだ。でも、次の日には二人とも忘れた。

それからお正月用の買い物。ごたごたと忙しくて生協の注文もしていなかったので、スーパーをまわるしかない。夫は私より買い物が嫌い。そうして二人で買い物するというのも私が嫌い。だから、私ひとりでわっせわっせ買い物し、買い残したものを夫に買いに行かせる。でも、お年始のお菓子を買い忘れたぞと慌ててデパートに走る。

ずいぶん前に、ベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』を読んだら、買い物について書いていたところがあった。まったくだとうなずいたものだった。

「だが、主婦の大切な役目は家庭に必要な物を買うことだと、誰も言わなかったのはなぜだろう。女らしさや女性の役割について盛んに議論をたたかわせても、人々は、アメリカが実際に関心をよせていたのは商売だということを忘れていた。だが、女性が消費の女王にまつりあげられていることに気がつけば、主婦業礼賛の意味もわかってくるのだ。女性が自分の才能をいかさずに、わけのわからない不満にうつうつと日々を送っているほうが、買い物をたくさんするだろうと、誰かがどこかで考えたのにちがいない。

頭の良いある会社の副社長が言った。「教育のある女性がふえすぎたんじゃ。彼女たちは家にいたがらん。不健全なこった。女性がみんなえらくなったら、買い物をする時間がなくなる。どうしたら女性を家に引き止めておけるんだろう? この頃の女性は職業につきだがるんでなぁ」

社会学博士の重役が答えた。「女性が家で職業につけるように圧力をかけるんです。つまり、家事をクリエイティブなものにするんです」

この会話をしたのは家庭用品業界のおえらいさんだろう。みんなで栗原はるみさんのようになれば、栗原はるみブランドは売れる。家庭用品業界はホクホクだろう。でも、女性が働いてお金を持てば、家庭用品ではなく、旅行やスーツや外食産業にお金を落とすことになるだろうから、何かを買わずに生きるなんて現代では無理なことなのだ。

わかっちゃいるが日々の買い物って面倒臭い。トイレットペーパーやティッシュが切らさずにある、洗剤も米もいつもある。FAX用紙もプリント用紙も当然のように鎮座している。揃えているのは私なんだよと、年末は1年のブツブツが噴出してくるのだった。

正月早々愚痴をいって申し訳ない。春からは息子が中学になり、お弁当作りという憂鬱なものが待っている。もっと家事を効率的に(手を抜いて)時間をとられないようにしなくてはと、新年に誓う。

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