余剰排出枠を購入
<メモ>
昨日の新聞に「政府、余剰排出枠を購入」という記事があった。http://www.asahi.com/politics/update/1125/TKY200711250158.html
「金で解決する」ということのようにしか思えないのですが。支払うお金は税金ですよね。謎が深まるばかり。
<メモ>
昨日の新聞に「政府、余剰排出枠を購入」という記事があった。http://www.asahi.com/politics/update/1125/TKY200711250158.html
「金で解決する」ということのようにしか思えないのですが。支払うお金は税金ですよね。謎が深まるばかり。
夏休みの図書館で、片桐はいり著の『わたしのマトカ』を読んで、旅に出たいと身もだえたのだった。内容は、『かもめ食堂』の撮影のため滞在していたフィンランドでの出来事を綴った初エッセイ。それでは『かもめ食堂』もぜひ観ないといけないと思っていたのが、やっと観ることができた。
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わたしのマトカ 著者:片桐 はいり |
フィンランドについて私が知っているのは、「マリメッコ」ぐらいだ。昔むかし大学生の頃、アパートの近くのインテリアのお店でアルバイトをした。店は映画の仕事をしていたけど、辞めて実家に帰ってきている女性がしきっていて、店長は彼女の弟さんだった。私と彼女でディスプレイなど考えて変えるのが楽しかった。そのとき「マリメッコ」を知り、憧れた(学生には買えないお値段だった)。大胆な柄とカラフルな色遣い。クリスマスに店長が「マリメッコ」のバスタオルをお姉さんと私にプレゼントしてくれた。人生の中でもうれしいプレゼントベスト3に入っている。今でもそれを持っている。色はだいぶあせてしまったが、捨てられない。それから結婚した時もお布団のカバーは「マリメッコ」に統一したし、紙ナプキンも好きで集めた。
映画はたんたんとして良かった。役者のおかげで退屈しないのだ。小林聡美と片桐はいり、もたいまさこ。『やっぱり猫が好き』が好き以来、小林聡美ともたいまさこのファンだ。冬休みは『やっぱり猫が好き』のDVDを借りて息子たちに見せなくちゃ。名作だものね。
朝のラジオで、日本では二酸化炭素が削減どころか増えているという話が流れていた。
先週、仙台へ行ったとき、地元の知人が「今年は仙台名物のイルミネーションはぎりぎりまでやらないらしいよ」と言っていた。財政難の折、電気代がかかり過ぎるためだとか。彼女曰く、「はじめはきれいでスゴイと思ったけど、見慣れてしまったら感動もないし、クリスマスだけでいいんじゃない」ということだ。
仙台だけでない、この季節あちらこちらで電飾が華やかだ。夜の仙台の街を歩けば、アーケード街は十分にクリスマスの電飾に飾られてきれいだった。こういうのが嫌いではない。家の周りに明かり一つ見えない山の中で暮らしていた時は、12月になると東京のクリスマス・バージョンの街が恋しくなった。
しかし温暖化なんでしょ。エネルギーがもたないとか話しているんでしょ。地球温暖化と騒ぐわりには、なんというか日常的には電飾がニュースになるし、何かのキャンペーンではタワーをピンクとかに電飾したとニュースになるし、なんだろう、私たちは地球温暖化なんてしみじみ本気にはしていないのではないか。このニュータウンも家庭の電飾が流行っている。個人家庭の電気消費量は減るどころか増えている。うちも電飾はしていないが、クーラーなどがないというだけで、電気を節約はしていない。
地球温暖化といえば、最近「排出権取引」という言葉が出てくる。よくわからなくて調べまた。長くなるので説明はしないが、企業にとっては大きなビジネス・チャンスとなるらしい。もちろん問題点も多いはずだ。まったくなんでもお金に変わるすごい世界だ。
しかしそんなことより、電飾を控えるとか、クーラーを控えるとか(夏にどこへ行っても冷房が効きすぎていて、上着かショールを持ち歩くのもおかしいよね。ちょっとくらい汗かくくらいでもいいのではと思うのだが。)、日々の取り組みも必要なのではないか。エコな電球に変えたり、エコバックを持ったりすること以上に公共と家庭での電気消費量を考え直すべきだと思うこの頃なのだ。
最近、なんだか心弱いのではないかと落ち込むことが多々あった。人の言葉にいちいち傷ついていた。もしかしたら私の感じ方が間違っているのではないのかと思った。自分が能力もない木偶の坊に感じ、山の家にこもって土いじりしているべきだったと後悔してみたりした。
でも最近また文学方面の方々との交流を再開したら、何か大切なことを思い出させてくれました。あのね、木偶の坊でいいんだと。普通の優しさはそのままでいいんだと。そうして、茨木のり子の「汲む」という詩も思い出した。もう一度言葉を信じてみようと思った。
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと
「汲む」 茨木のり子の詩より一部抜粋
初雪に続いて初積雪。朝の気温もマイナスになった。一昨日、夫は慌てて山の家へ向かった。まだ水止めをしていなかったのだ。まだまだと思っていると、いきなり冬がやってくる。
そうして私も慌てて子供たちの冬物を取り出す。次郎の冬靴は履けなくなっている。サッカーも屋内になるから新しいフットサルシューズを買わないいけない。ベンチコートもフリースの上着も小さいくなっている。大きくなったんだね。兄の太郎の冬用のジャージもつんつるてんで寒そうだ。全部次郎にお下がり。制服の上に着る冬のダッフルコートは、彼のピアノの先生の息子さんが来ていたのをもらっていたので、それを出す。でも、新しいトレーニングウェアと温かい下着を買わないといけない。小学生の頃は薄着だったのに、中学生になったとたん、「学校が寒いから長袖の下着が欲しい」と親父のようなことを言う。とにかく、今度の連休は子供たちのものを買い出しにいかないといけない。
先週から今週までとにかく忙しかった。大学以外にもPTAのこと町内のこと、親のことなどの問題が降りかかってくる。ひとつひとつ片づけて、会議に辛抱強く出て、話を聞く。
でも、疲れていたのかな。月曜日は好きな講義をすっぽかしてしまう。頭の中で時間割が金曜日のままだったのだ。だからなぜか3時限目はないと思い込んだ。昼を食べてから図書館に座ってみたが、「歩かなくちゃ」と思った。歩いて頭をまとめないとどうにかなりそうな感じだった。ロッカーに荷物を放り込んで、大学を出て森林公園のまわりの道を歩く。歩いているうちに思い出した。「今日は月曜日で『ジェンダーと文化』の講義が今あるのではないか」。でも、もう遅い。それに、なんだか遠くまで来てしまった。4時限目に間に合うために森林公園を抜けて大学へ走る。近道をするために遊歩道ではない草地を走ったため、靴は雪でぐしょぐしょになった。息を切らして教室に入ったので、前の席の子に「体育の授業だったんですか」と聞かれた。そう、ひとり体育していたの。でも、汗をかいたらなんだかすっきりした。
心強くしないとだめだな。ストレスでやられそうな予感がしてきた。きれそうな、どうでもよくなるような気分だ。心強くする方法は、睡眠、運動、小さなお守り(今気に行っているもの)、どうにかなるさという楽観的思考、いろいろだけど乗り切っていけるだろう。
統計の初歩の初歩の講義を受けて、まず確率でひっかかる。考えても先生の問題がわからない。お願いして研究室で教えてもらう。先生はホワイトボードとコインを使って熱心に教えてくれる。でも、わかったようなわからないような、自信のなさがあった。しかし、先生の時間をあまり取るのも悪いので切りがいいところで失礼する。それから図書室で先生とやらなかった問題を考える。考えて、考えて、こういうことなのかと答えが見つかったときはうれしかった。あっているかどうかわからないけどね。昔むかし、今はITの仕事をする弟が「数学は考えるのが楽しんだよ」と言ったのが、今頃わかってきた。
わかることはうれしい。この楽しい気持は心強い。楽しいことを今は大事にして、いつか自分も成長するのだろうかと信じよう。
気がついたら、今月は俳句の締め切りが4つもあった。まず神奈川の「森の会」さんに俳句を送る。仙台の句会にも行く予定だ。同じ俳句は提出しないというのが自分の約束だが、「海程」にはそれぞれの句会で評判の良かったものを出す。しかし、評判のいいものがなかったら、一から考えないといけないから時間がかかる。昔むかし俳句が気持よく生まれていたのに、言葉が生まれてこないでもがく。
日曜日にある精神の障害を持つ人とその家族の方が中心に行っている絵を描く会に出て絵を描いた。通っている大学の学生さんもボランティアに来ているのだけど、私は講師の画家の方に誘われてただ絵を描きに行っただけ。色を塗る作業が好きだ。そうして話があう青年達がいた。前の席の青年が楽器を描いて文字を入れている。なんだろうと質問したら、「短歌だ」という。結社にも入っているという。それで、短歌や俳句の話をしていたら、詩を書いている青年が詩を見せてくれた。楽器の話から「実はギターが好きなのよ」というと、山崎まさよしの新曲が出たことを教えてくれたり、クラシックのギターも詳しくて楽しかった。絵を描きながらしゃべったり、集中したりのリズムが心地よかった。足りないのはこういう時間だったのかもしれない。大学ではほとんど人と話さない。話さないというのも緊張していて肩がこるのだ。
朝は料理をしながらラジオで基礎英語などを聞いているが、「 I have meny irons in the fire.」という言葉が耳に入った。「一度に多くの仕事に手を出す」という意味だそうだ。その裏には、「ひとつでも当たりがあればいい」という思いもあるとか。私のことのようだ。下手な俳句も数作れば一つぐらいあたるだろうか。
俳句だけではない、「遠野物語」の世界を英語で発表するなんてことも引き受けてしまったり、まだまだ先のこととタカをくくっていた締め切りが確実にやってくる。英訳しなければいけないものもあった。大学の講義とは関係のないことばかりだ。講義にもでないといけないし、とにかくひとつひとつ片づけていくしかない。ついこの間夏休みだったのに、年末が近づいている。昨日の帰りのバスから、もうクリスマスの電飾を華々しく飾っている家を観た。なんだか気持が焦るではないか。もう! クリスマス。
というわけで、ブログの更新はますますできなくなりそうです。
来てくれた方ありがとうございます。冬休みまでひきこもりになります。
「女性の活用」という言葉にひっかかるが、「ボランティアの活用」という言葉もひっかかる。
この間、ある施設の人たちが話しているのをつい聞いてしまった。内容は、職員の手が足りないところを「ボランティアを使えばいいのでは」という提案と、「まだまだボランティアを活用がされていない」ということだった。私は遊びに行っていたお客さんだったので、立ち聞きしたという訳だ。また、昨日ある人に介護の人手不足、予算不足の話をしていたら、「ボランティアは活用しているの」と言われた。
「ボランティア」は活用するものだろうか? やりたい人が勝手にやるぶんにはいいが、何かひっかかる。確かにたくさん年金をもらって、まだ元気で、人のために何かしたいと思う人もいるだろう。でも、「活用」という言葉は失礼な気がする。
そんなとき、昨日『講座 障害をもつ人の人権』第1巻の中の大熊由紀子さんの「ノーマライゼーションの理念と政策」という文書の中にボランティアのことが触れられていた。
たとえば、文部科学省はじめ多くの日本人は、ボランティアを「無料で奉仕する親切な人」と思っているフシがありますが、これはボランティアの本家の国々では通じない解釈です。
「ボランタリーな殺人」は、奉仕の精神で親切に殺してあげるのではなく「故意殺人」という意味ですし、「ボランタリーな筋肉」は随意筋のことです。ボランティアのヴォルはヴォルケイノ(火山)のヴォル、内側からほとばしり出るという意味なのです。大阪ボランティア協会事務局長の早瀬昇・阪大客員教授は、「ほっとかれへん、と現実をかえようとするのがボランティアの本質」と述べています。
これは著者が、カタカナの言葉が日本に定着するときに元の意味とはニュアンスが違ってくるという文の中にあげた例のひとつだ。
「ほっとかれへん」という我から行動するボランティアなら、これから団塊の世代の方々がボランティアで現場に入り、「こんなことでは駄目じゃないか」と外部からの問題提議をしてくれるといいかも。願わくはボランティアといって日本人の美徳を発揮して言いなりになって働いて(活用されて)しまわないことを願う。私もそうだけど「いい人にみられたい」ためにやりすぎてしまうところが特に女性にはあると思っているから、気をつけたい。
さて昼を食べたら、お仕事に行かなければ。友達の個展の最終日だったが行かれなかった。掃除機かけて、風呂掃除して、アイロンかけて、買い物して、帰りが遅くなるので夕食におでんを作り、これ書いて時間切れ。千葉の母に我が家にボランティアに来ないかと誘ったら、「やることいっぱいあるし、友達やボーイフレンドと離れるのは嫌だから、盛岡なんか行かない」と言われた。ボランティアの活用に失敗したのでした。
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講座 障害をもつ人の人権〈1〉権利保障のシステム 販売元:有斐閣 |
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ハードワーク~低賃金で働くということ 著者:ポリー・トインビー |
これは夏休みに読んだ本。大学の本棚で見つけたこの本に書かれたイギリスの低賃金労働者の様子は今ここで起こっていることだった。
ジャーナリストのポリー・トインビーが低賃金労働者の現場にもぐり込んで働き経験したことのレポートだ。彼女はまず自分の家を出て低賃金者向けの治安の悪い公共アパートへ入居し、派遣会社に面接に行き、清掃員、給食のおばさん、施設の介護などの仕事につく。そうして得た賃金で生活をしてみることを試みた。それは、洒落たレストランや劇場にはいけない生活、本当に最低限の生活だった。
そうなのだと実感するところを引用する。
すぐにでも辞めてやりたいと愚痴をこぼすが、実際はやめることもなく、毎日重労働をこなして疲れはてている。なぜ辞めないのかといえば、お互いが好き、この学校が好き、仲間が好き、校長が好きだからだ。それにも増してふたりで結束し、毎日過酷な労働に立ち向かうこと自体が、続けていく原動力になっている。それができること、重労働に負けないことが、ある意味ふたりにとって誇りになっているのだ。
会社はこうした気持ちを徹底的に利用する。それどころか、辞めない理由する理解していないことが多い。 「給食のおばさん」(P124)
人は賃金の高い所に移動するというが、そうでもない。私が行っている事業所もヘルパーが辞めない。そのことを皆が満足していると考える上の人もいるようだ。でも違う。家が近いからというのが大きい(通勤に時間がかかるとお金と時間がかかる。公務員並の待遇なら皆どこにでも通うだろう。でも、100円、200円の時給の違いなら、家の近くで慣れたところがいいに決まっている)。そうしてやはり主任が好き、やりがいもあると感じる。しかし、その気持ちをいつも利用されている。いたるところで、女性のケアする習性、前向きさ、生活力を詐取されている。
女の仕事はいまも生来の機能のひとつとみなされ、タダ同然でいいと思われている。老人のからだを洗ったり優しく接したりするのに資格はいらない。女なら誰でもできるというわけだ。介護、掃除洗濯、料理から子どもを教えたり、育てたりすることまで、女性特有の技能とみなされる仕事の価値は軽く見られ、それが低賃金問題の核心になっている。母親は子どもを愛するからこそこうした作業をしているわけで、給料をもらおうなどとは思っていない。となれば、働く女性はすべからく社会の母となり、ほとんどただ働きをしてしかるべきだ、という暗黙の思い込みがある。(P259)
男女雇用均等法とかもあるが、それはエリートのための法律だ。「女性の力を大いに活用して」という言葉ほど嫌なものはない。どこの国でも相変わらず変わらないことだと確認した本だった。その後、自分の生活に戻った著者がどんな活動をしているのかを知りたいと思う。
昨日は秋晴れ。紅葉もそろそろ散っていく。水曜日は大学は午後一こましかないので、庭の紫蘇やミョウガなどを片付けたかったが、すごく歩きたい気分になって大学まで歩いて行った。1時間40分かかって大学につく。
春や夏にも歩いたことがある。はじめはダム湖のほとりの遊歩道を歩くので気持ちがいいが、山道に入ると歩道はない。そうして交通量がとても多い。通勤時間のピークを過ぎた9時過ぎに出たが、車の多くは飛ばしている。トラックも多い道だ。私が歩いていると、カーブが多いから対向車が来ると私を抜けない。車は止まることになる。申し訳ないから道路わきのやぶに入って車に行ってもらう。中には人が歩いていてもお構いなしに怖いぐらいすれすれにスピードを緩めず走って行く車もいる。眺めはいい道だが、なんだか人間が歩くのが悪いような道なのだ。
もちろん事故もよくある。長男が土日に大学のテニスコートで練習が時々ある。私も仕事で送って行かれないので自転車で行かせていた。でも歩道もないので自転車はもっと危ない。そしてやっぱり、息子の先輩が事故にあった。それからは、「自転車で行ける距離だ」という夫を説得して車で送迎してもらっている。
この間経済学者、宇沢弘文の『社会的共通資本』(岩波新書)を読んだ。その中に「自動車の社会的費用」(このタイトルの岩波新書もある)に、教えていた地方の大学のまわりの自動車優先思想の道路づくりを批判しているところがある。私が通う大学も同じ。地方の大学は車使用を前提としているのだ。1年生も夏休みに免許を取って車通学が増えたようだ。私はつい「冬道は気をつけてよ」とお母さんのようなことを言ってしまう。大学生の間は、できるのならバスや電車、自転車で通えるといいなぁと思う。
車社会の現実を考え直してみることは本当に必要なのでは、温暖化対策の面でも必要なはずなのに、車社会が見直されることはない。道路は車のものだ。
東京から岩手の田舎に越してきてはじめに慣れなかったことがある。それは、いつも車で移動しなくてはいけないことと、スーパーでパックした肉や魚を買わないといけないことだ。田舎は移動手段が車しかない。保育園も山を越えて車で20分かかるので、自転車は使えない。東京では車なしでよく歩いたものだった。田舎は一家に一台ではなく、大人1人に一台車がある。あと、魚屋とか肉屋はなくスーパーしかないことも慣れなかった。東京では下町に住んでいたので、商店街が生きていた。田舎の商店街はスーパーに押されて、シャッター街になっている。なんだか田舎が「自然にやさしい」というのは一概に言えないなぁと思ったものだ。
ここでは車がなければ生活が不便だ。わかっているが、なんとかならないものかと思う。「そのうちガソリンが値上がって足りなくなって、乗りたくても乗れなくなるんじゃない」というのが息子の意見だ。そうなるのかしら。燃料のことを考えれば、車も何かが変わっていかなくてはいけないのだろう。
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社会的共通資本 (岩波新書) 著者:宇沢 弘文 |