前回、都会と地方の学力格差が開くと書いたが、地方の一公立学校の中での学力格差が大きくなっている。公立学校に頼れないなら塾に行かせられる家庭はいいが、塾に行かせたり、家庭教師を頼んだりできない家庭も多い。明らかに勉強のできは家庭の経済力に比例しているような気がする。経済力プラス家庭の文化水準の高さかもしれない。
OECDが実施した国際学力調査(PISA)で、日本は順位が落ち、マスコミは「学力低下!」と騒ぎたて、子供たちの学力を向上のための対策が考えられる。そのPISAで1位を取るのはフィンランドである。フィンランドに学べとばかりに、フィンランドの教育方法を真似してもなかなか効果は上がらない。なぜなら、根幹にある国の理念が違うからである。
フィンランドは、善意で子供たちに平等なスタートラインに立てるように教育しているわけではない。社会民主主義や人権の思想は強いにしても、北国の自然が厳しく人口も少ない国がグローバル時代に国が生き残る戦略として、「教育」に力を入れた。その予算のかけ方が違う。新自由主義にのっとって、規制緩和と地方分権をすすめる。教科書の検定はなくなり、学校や先生が自由に教科書を選べる。国はおおまかなアウトラインを示すだけで、授業内容は市町村に任せる。自治体は予算が余れば、まず教育に回すのがふつうだそうだ。日本も新自由主義路線だそうだが、教育に関する規制緩和の考え方が違う。
フィンランドは、給食も無料だそうだ。福祉が充実しているのは税金が高いからだと言われるが、大学まで無料、医療費は無料、母子家庭になろうが、障害者になろが、老人になろうが、安心して暮らせる保障があるのなら、貯金をむやみにしたり、多額の保険をかけたりしなくていいだろう。そんな暮らしがあるのなら、たくさん税金を取られたっていい。これで、国の経済も伸び、国際的評価も高い国になっている。子供たちとフィンランドの特集をテレビで見ていたら、「ずるいじゃないか」と言った。同じ人間なのに、こんなにいい環境で学べるなんてということだが、ちょうどアジアの問題を議論する講義にもでていたので、同じ人間なのに、教育も受けられない子どもたちとこの北欧の差に愕然とする。アジアは別物なのか。あそこまで到達なんてできるのだろうか。できないだろうな。北欧なんて別に目標でもないのだから、政財界の人たちは。
フィンランドの教育は国の要という意識が強い。だからといって、長時間勉強しているわけではなく、授業時間は日本より短く、塾はなく、家庭学習も日本と同じぐらいだ。先生も自分の授業が終われば、夕方家に帰る。部活や就職の面倒は見ない。それはそれで専門の人がいる。夏休みは2か月たっぷりとる。その間、学校へは来ない。(ただ、研修などには出ているようだ。)これで、世界一の学力なら、日本はどう真似したらいいのだろう。
塾がないと驚くが、こんなに塾があるのは日本とか韓国ぐらいかと思う。なんでこんなに勉強しても英語は話せるようになれないし、ユーロに円は負けているし・・・。負けてもいいんだと思う。日本なんて、もとから小国だったのだ。もう一度謙虚に力をつけていかなくてはいけない時期なのではと思うのだ。
学力をあげるために勉強時間だけはのび、学校や塾に拘束される時間は長くなり、「フィンランドのように読書習慣をつけましょう」といっても、ゆっくり読書する時間もなく、ゲームやバラエティ番組でストレス解消をするだけだ。
日本ももう少し公立学校に力を入れ、国が自信を持って世界に示せるようにして欲しい。かつての日本は基礎教育が世界に誇っていたはずだ。それがどこからか転換した。
「学力低下」は、「ゆとり教育」のせいだと言われるが、そうだろうか。ゆとり教育のせいにしているだけで、各家庭の格差、そのための諦めや先生の質の悪さなどがあげられないだろうか。先生の質が悪くなっていくのは、良く言われるように先生の仕事がハードだからだとも考えられる。あと、教員資格が簡単とかもあるかもしれない。日本は世界の中でも先生は長時間労働だが、実際に教科に関わっている活動は他国より少ないという結果も見た。では、日本の先生は何に忙しいのだろう。部活や進学指導や問題ごとの対処やたくさんの書類いろいろあるんだろう。そこらへんを見直さなければまずいけないのではないか。
これらの話題は、大学の講義を通していろいろな論文を読んでの考えさせられた。先生から一般的にわかりやすいとして紹介された本の最後に次の文書がある。
日本とフィンランドの教育は、いまやまったく逆向きに動いているように見える。ならば、この差はどこからでてきたものだろうか。政財界が未来の変化を途中で読み変えたのか、教育界が詰め込み主義的考えを根本的に改めていないからなのか、子どもたちの教育環境が劣悪だったからなのか。
ひとつだけ、忘れていけないことがある。「総合的な学習の時間」を特徴とするカリキュラムの作成責任者にあたる、当時の教育課程審議会会長だった三浦朱門のことばは衝撃的だ。
「学力低下は予想し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審はやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」
なかなか含蓄のあることばである。しかし、国際学力調査をしたOECD教育局の方は次のように言っている。
「教育の質が悪く、どういった家庭的な背景・出身かということが大きな影響を及ぼしているということでは困る」
OECDが教育調査をしているのは、学力の競争をしているわけではない。これからのグローバル化の中で生き残れる力を一人一人にもってもらいたい。そういう国が生き残れるからだ。
日本の子どもたちは、正直旧態依然の教育感の学校の中でよくやっている方だと思う。でも、いつまでもできない者は切り捨てるような感覚が政財界にあるのなら、日本の発展も危ういかもしれない。もういろいろな面で日本と言う国の資産が目減りしている。それは教育力という点からもいえるかもしれない。
まだまだ、資料がたくさんあり言うべきこともあるのだが、これくらいにしておきます。
引用した本は、下記のものです。
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競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書) 著者:福田 誠治 販売元:朝日新聞社 Amazon.co.jpで詳細を確認する
あらら、こんなことを書いていたら、仕事に行く時間だわ。先週土曜日に仕事が終わってから、「来週から春休み」と喜んだら、主任が「ちょうど人手が欲しかった」と喜ばれた。今日は新しく入ったヘルパーさんの同行訪問だ。訪問先はそれぞれやり方や人の癖があるから、一緒に行って伝授するというものだ。いつもは一人でやる作業も同行だと楽しい。私が教える立場なのに、他のヘルパーさんの料理の仕方を見ると、勉強になること多いのだ。
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