橋場あや展
「橋場あや 油彩展」
「子供の街」から「少年のあした」へ
4月2日から6日。盛岡マリオス4階展示ホール
<同時開催>
「橋場あや 油彩小品展」
4月2日~6日 ギャラリーla vie (653-0431)
※ 岩手では有名な画家です。子供たちや障害者の芸術活動を応援していられます。橋場先生のおかげで、私もなぜか絵を描くことになって、はじめて油絵の具にふれているところです。
「橋場あや 油彩展」
「子供の街」から「少年のあした」へ
4月2日から6日。盛岡マリオス4階展示ホール
<同時開催>
「橋場あや 油彩小品展」
4月2日~6日 ギャラリーla vie (653-0431)
※ 岩手では有名な画家です。子供たちや障害者の芸術活動を応援していられます。橋場先生のおかげで、私もなぜか絵を描くことになって、はじめて油絵の具にふれているところです。
東京は桜満開だそうで、うらやましかぎりです。盛岡も暖かい日があったのですが、また寒さがぶりかえしています。というか、このぐらいの寒さが3月としては普通なのです。この時期、どうやら鬱になるのがお決まりです。うつらうつらしていました。でも、仕事に出かければ元気が出るタイプなのです。家の人には「外面がいい」と言われています。外で元気に振る舞って、家で「もうだめ」と寝込むのですから。でも、いつものことだと思われて誰も心配はしてくれません。寝ればなおるのです。
昨日の朝、雨が降りそうだからとレインコートを羽織り、自転車でパートに出かけようとして走り出したら、寒くて震えて戻って来ました。まだ、レインコートの季節ではありませんでした。山用の防寒ズボンにダウンの上着を着込み、毛糸の帽子をかぶり、でかけました。
それで俳句の話です。
この前、
絵筆洗う水仙の色空の色
という俳句を作りました。春の俳句として出したのです。そうしたら、「水仙」は冬の季語だと教えられました。
そうなのか・・・。千葉に育った私にはわかる気がしますが、でも、ここでは水仙はやっと芽というか葉が3cmぐらいみえるぐらいです。これさえにも「春」を感じるのです。「水仙の花」とくれば、春も盛りのときです。
岩手に暮らし始めて、「歳時記」に時々違和感あります。連休前にやっと桜の句を作る頃に、関東では新緑や躑躅だったりするのでしょう。春は遅く、秋は駆け足で過ぎます。
東北らしい春の花の句といえば、金子兜太の句を思い出します。
人体冷えて東北白い花盛り
水仙やタンポポなどの黄色い世界のあとに桜が咲き、そのあとにどっと白い花の世界がやってきます。その頃が東北の本当の春から初夏に向かいます。でもまだ肌寒かったりします。コデマリ、オデマリ、ウワズミ桜、朴の花、蔓あじさい、その他いろいろ。この時期東北を旅すると息を飲む風景に出会えるのです。
その頃、うつ状態が抜けて元気になるのです。
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女性障害者とジェンダー (障害者福祉シリーズ 第6巻) 著者:伊藤 智佳子 このシリーズは、初学の者にはとてもわかりやすく、読みやすく、勉強になると思いました。 障害者福祉シリーズ 第1巻 障害をもつということ 第2巻 障害をもつ人たちの権利 第3巻 障害をもつ人たちのエンパワーメント 第4巻 障害をもつ人たちの居住環境 第5巻 支援・援助者をめざす人たちの基本姿勢 第7巻 障害を持つ人たちと教育 第8巻 障害を持つ人の家族の心理 ところで、とにかく本を読んでばかりでした。勉強しても中年の頭にはなかなかはいらないのですが、いろいろ知りたいときにはまずは本です。しかし、この1年ですっかり目が悪くなりました。眼鏡をはずすとぼんやりとしか見えません。眼鏡も合わなくなりました。眼鏡を変えなくてはいけませんが、それより目をいたわらないといけないですね。老眼もあるし、花粉症もあるのです。よく高齢者の利用者さんが「年を取ってゆっくり本を読もうと思っても、目が悪くなってだめだ」というのを聞いていましたが、わかるような気がします。虫眼鏡でゆっくり読んでいる人もいます。未来の私もそんな感じかしら。 |
昨日の夕食のときの次男の質問。「なぜ、千葉のおばあちゃんとかお年寄りにはカタカナの名前があるの?」
今どきは、ひらがなの名前はあってもカタカナはないから不思議だったそうだ。
昔は満足に教育を受けさせられなくて字が書けない子供もいたので、難しい漢字より誰でも書けるカタカナにしたと聞いたことがあると説明した。その頃は、ひらがなよりカタカナをよく使っていたのよ。
「でも、おじいちゃんとか男の人は難しい漢字の名前だよ」と次男。
だから、男の子は教育を受けさせてくれたの、女の子は学校に行けなくても男の子は学校に行かせようとしたの。「それって差別ジャン。義務教育ではなかったの」と次男。
尋常小学校は義務教育だったのだろうか、良く知らない。でも、きちんとした義務教育は戦後のことだと思うよと話す。そうして、千葉のおばあちゃんも学校へは行っていたけど、家の仕事や家事の手伝いのために学校を休まされたんだってという話をする。千葉のおばあちゃんの家は職人仕事で兄弟も多い、小さいうちから親の仕事の手伝いもし、下の兄弟の面倒を見る。でも、おばあちゃんはどうしても学校へ行きたくて、親の目を盗んで学校へ行ったんだって、長女の市川のおばさんに家の仕事全部押しつけてね。おとなしい長女ときかない次女だったわけだ。
そこで長男、「英語の先生も(1週間だけ塾の春期講座に行っている、そこの先生)、男はMrだけなのに、女はMrsとMissに分けられてきた。それはおかしいと怒っていた。だから、今はMsなんだって・・・」と、仕入れた話を披露する。
長男は友達と塾に行くことにしてみたものの、しごかれるかと心配していたが、「すげえ面白い、良くわかる」と喜んでいる。なんか親としては複雑な気持ちだ。学校の授業がそんなにつまらないのかいと。
それはともかく、子供たちの質問にうまく答えられないことも多い。今度はもう少し戦前の教育制度のこと勉強しておかなくては。
●知的障害者が警官に取り押さえられた後、死亡した事件
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080315/trd0803151550009-n1.htm
●施設で障害者に日常的に暴力
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200803/2008031700798
前にも知的障害者への過酷労働を行っていた札幌の事件を取り上げましたが、気をつけてニュースを見ると、まだまだ障害者への不当な差別は多いようです。
でも、私も知的障害の方と接したことがありません。そこで、あるボランティアに紛れ込んで知的障害の子供たちの施設を見学しました。その体験はすごくショックでした。子供たちは言葉もない子が多かったのです。どう対応していいかわかりませんでしたが、子供のほうから寄ってくれました。ショックだったのは、スタッフの子供たちへの態度でした。まるで私が超不機嫌でイライラしている時に、子供たちに「静かにして!」と怒鳴っている姿を見せられたようです。すごく自己反省しました。しかし、スタッフは外部の目があるのにきつい口調や態度があるのは、これが日常なのだと考えました。
高齢者の施設でバイトしていますが、スタッフは親切です。言葉遣いも丁寧です。新しい所長さんの方針は、「おもてなしの心」です。そういう世界から来た者には、利用者である子供へのきつい言葉がグサグサ胸に刺さりました。
子供は知的障害者なので、サービスにクレームつけないからでしょうか、しつけのためでしょうか、まわりの人がそれほど疑問に思っていないのが不思議でした。私が甘いのでしょうか。「毎日この仕事をしてみなさいよ」と言われているような気がしました。そうして、知的障害者への差別的対応の事件がやっと肌で感じられたのでした。1歩間違えれば虐待も起きる。起きているのではないか。もちろん、もっとスタッフの対応がいい施設もあるはずです。
前にある老人施設に入っている軽い知的障害と聴覚障害のある方のヘルパーに行ったことを思い出しました。そこでも、若いかわいいスタッフが私の利用者さんをしかり、バカにする姿を見ました。私が間に入ったら「ヘルパーさんは関係ない」と怒られました。そのときは、「この子もどこかで福祉を勉強してきたのに、なぜこうなるのだろう。はじめは理想があっても施設の色に染まるのだろうか」と考えてしまいました。そうして今回もまだ学校を出たてと思われる20代のスタッフの態度が気になりました。その無表情な感じも気になりました。施設というのは気が緩めれば、流されやすい場であると思います。
私はここで働けるだろうか、と想像しました。下っ端のくせに、先輩のやり方に口を出せばいじめにあいそうです。それに戦っていけるだろうか、辞めるか波風立てないでその場の空気に飲まれていくだろうか。考え込みます。簡単に変えることができない、所長にでもなって変えるしかないと考えました。
スタッフの研修はどうなっているのか、第三者委員会はあるのか、高齢者のほうは利用者の権利が浸透してきていますが、障害者はどうなのだろうか。まして子どもはすごく弱い立場にいることに改めて気づかされました。
障害者問題にかかわることになって、勉強しなくちゃ、そのために動いていろいろ見てみようというのが、春休みの課題でしたが、ショック多すぎて無力感大きいです。今頃気がついたのかと怒られそうです。こうやって動けば目や耳に入ってくることですが、興味を示さなければ障害者のことは他人事でしかなく非障害者の目に入って来ないことがよくわかりました。
とにかくやることは多いようです。
山の家から帰るところです。山では、携帯は圏外、テレビはなく、ラジオもNHKが雑音混じりではいるぐらい、インターネットはダイヤルアップなので開く気もしない、新聞を買うところまでは車で30分。そういう訳で情報に遮断されているのですが、それほど困ることもなくますます早寝早起きになってしまうぐらいでした。車で盛岡へ向かうと、途中携帯がつながって、メールには学校からの連絡網やらなんやら大切なことが流れてきて、「ごめんなさい」と謝りの返信を打っていたところです。山の家の庭に植えた福寿草が増えて広がっていました。
風は少し冷たいけれど、北国も暖かくなりました。近くの県立博物館にマンサクの花を観に行きました。途中、何人もの人と言葉を交わしました。冬の間は、外を歩いていても下を向き黙々と歩き、立ち止まって人と話なんかしません。春だなと感じました。
家を出て歩いていると、保育園児のお散歩集団が私を見て「眼鏡マンだ」とはしゃぎます。赤いフレームの色つき眼鏡をかけていたから目立ったのでしょうか。「眼鏡ウーマン」なんだけど、と思いながら手を振ると、「眼鏡マンが手を振った」とまた大騒ぎです。交差点では、「次郎のお母さんだ」と息子の同級生が声をかけてきます。「次郎は?」「T君から電話があって、出かけたよ」と話していたら、目の前をT君のお母さんが赤ちゃんを乗せて車から手を振って走って行きました。「・・・ということは、T君の家にはいないね。そこらへん走っているでしょう」と別れました。次は、知り合いのお母さんが小さな娘さんと走っています。それもピンクのトレーニング・ウェアできめています。「冬に親子して太ったからダイエットよ。親子マラソンにでるの」と言っていました。「若いねぇ」。しばらく歩いて交差点で、年配のご婦人が「暖かくなりましたね」と声をかけてきます。「本当に」と返事をします。博物館でマンサクの写真を撮っていたら、庭仕事をしていたおじさんが歩いてきました。私を見て、「今はマンサクだけだな。もうすぐいろいろ咲くだな」と話しかけてきました。博物館を出ると、杖をついた女性がきました。私に「中には誰でも入れるのですか」と聞きます。「建物はお金取るけど、庭は自由に入れますよ」と答えると、「はじめてここまで来たもので」と言って、庭の方に進んでいかれました。杖で階段を上るのは大変かなとも思いましたが、陽気に誘われたのでしょう。そのままダム湖の一部である水辺公園まで歩きました。日陰のあたりはまだ薄っすら氷が張ってきれいです。遊歩道を歩いて行くと、子供たちの声がして、どうやら石を投げて氷を割っているようです。聞きなれた声でした。次郎とその仲間たちでした。「あっ、お母さん。何してるの」「散歩だよ」と別れました。みんなが外に出たくなる北国の春。家の手前で庭に出ている人と挨拶。「いい日ですね。でも、まだ1回ぐらい来ますよね(雪のこと)」「4月もたくさん降ったことありますものね」と会話して、家についたら、ビールが飲みたくなりました。
少しピンボケだけど、ローズマリーの花が咲きました。
明日から、夫の実家でお萩を作り、山の家の掃除へと行ってきます。それではまた。
最近、介護疲れからの殺人や心中の記事が続くような気がする。今日も下記の2つの記事があった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080318-OYT1T00301.htm
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008031802096244.html
ヘルパーは来ていた例もあるのに、ケアマネに相談できなかったのだろうか。経済状態が良くない人も多い。お金さえあれば、介護もどうにかなるのものだ。でも、1割負担ができないために介護保険で認定されてもサービスの利用を控える人も多い。
私も普段は、毎日ヘルパーに来てもらっても、利用料を「安いわね」と言うお金のある利用者さんと接しているので、今の高齢者は恵まれていると錯覚するところがある。しかし、どこかに介護サービスを受けられないで、私たちの目に留まらない高齢者がいるのだ。
ディ・サービスに通うと千円から千500円の1割負担が取られる。毎日遊びに行ける人は、お金に余裕のある人だ。。介護保険の制度改正から2回行っていたのを1回にする人もいる。その方は自宅ではお風呂に一人で入れないので、週に1回のディ・サービスでの入浴となった。ヘルパーがお風呂介助もできるが、ヘルパーの利用日も減らしたから、買い物や掃除で時間がいっぱいなのでお風呂介助するプランは作れなかったのだと思う。
盛岡で発行している雑誌『家と人』(リヴァープレス社)で、北上市で在宅医療に力を尽くしている及川優医師の連載がある。一番新しいVOL.16で、及川医師も介護保険の疑問を書かれていたので引用する。この文は、80代の父親を一人で介護していた男性が自分の体の不調を隠していたのをケアマネさんに心配され、ようやく受診したときにはガンが手遅れだったという事例のあとに書かれている。
昨今の医療体制は様々な抑制力が働いて応能負担から応益負担へ移行してきている。弱者切り捨てになっている。
保険料を支払っているにもかかわらず、十分なサービスを受けることができない介護保険制度の在り方もこれに拍車をかけているという矛盾点が指摘されている。
1割の負担金が生活を圧迫し、必要なサービスの利用を受けられないという問題が起きている。
生活を切り詰め倹約し、訪問看護やヘルパーの利用も症状が極めて悪化した時だけの一時しのぎの利用、一時しのぎの往診を受けるのがやっとという人々が少なくない。
昨今、介護・看護の現場では、制度があっても利用できない、低所得者には経済的負担が大きい、弱者を排除してしまう制度ではないか、問題が山積みし、早く見直しが必要であるという声を聞く。
平等なサービスの利用ができることを謳い文句の一つに掲げて発足した介護保険制度。大いに疑問を感じるこの頃である。
そういえば、昨日「徹子の部屋」に上野千鶴子氏が出ていたので少し観た。「介護保険制度があるから、頼れる子供や身内がいなくても生活できるいい制度だ」と黒柳徹子にレクチャーしていたけれど、この二人なら利用料払ってフルに介護保険を利用できるだろうなぁと思って聞いていた。確かに、家族だけで介護しないで、または一人暮らしで、ヘルパーさんを利用し、在宅で生活できる制度はすごく良いと思っている。90歳でも毎日、1日に2回ヘルパーさんに来てもらい一人暮らしをしている方もいる。その方は三越の通信販売ショッピングが趣味である。「女はいくつになっても買い物が好きなのよ」と、元気な素敵な方だが、お金持ちだからできる生活でもある。いくら毎日切り詰めて介護保険料を払っても、皆が平等にサービスを受けられていないことを知らなくてはいけないし、この状況はひどくなっていく気がする。
先週、NHKの番組「福祉ネットワーク」で「なるほど、なっとく介護(再放送)」を観ました。最近つくづく勉強不足だと思っているからですが、とても参考になりました。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/fnet/info/0709/70927.html
http://www.nhk.or.jp/heart-net/topics/qa_008_4.html
特に、片まひの方の固く握られた手の開き方は、一人で「おおっ!」と感動しました。もしかしたら、介護士方には当たり前のことかもしれません。でも最近、ディ・サービスで入浴の介助をしているのですが、私は間違ったやり方で無理やり手のひらの中を洗っていました。痛かったのかな。何もおしゃらなかったけど、ごめんなさいです。
すっかり、番組に出ていた理学療法士さんの三好春樹さんのファンとなりました。三好さんのような方がそばにいて相談にのってくれたら心強いでしょう。でも、たぶん探せば身近にいるのかもしれないですね。
ディ・サービスの手伝いでのお風呂介助が気に入っています。周りの人から「大変でしょ」「ヘルパーの応援にそこまでさえるの」と言われますが、何だか身体を動かし汗をかくとダイエット効果ありそうです。介助のため一緒に湯船に浸かって「足浴、足浴」と喜んでいます。これもたまの手伝いですから楽しんでいられるのかもしれませんが、もう少し勉強しなくてはいけないことも多いです。
「介護職員65パーセント・勤務中けが」という記事がありました。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20080312-OYT8T00830.htm
私も、ヘルパーの仕事で腰を痛めました。最近、ヨガ教室通いを復活したのも腰のためです。後期の試験中に運動不足からまた階段を上るのがつらくなりました。お医者さんにも「歩くこと」「腰や背中の筋肉をつけること」をすすめられています。でも忙しいとどうしても机に向かうばかりで運動しなくなります。
これも、あの時腰を痛めたせいだと後悔します。両足が動かない利用者さんを床から車椅子に移乗するときに痛めました。その利用者さんは、昼間は居間のこたつで過ごし、夜はベッドで休みます。奥さんがどうにか介護していましたが、腰を痛めてしまったので、朝と夜の介助を頼むことにしたのです。利用者さんは高齢者といっても体格のいい方で、よく奥さんが一人で介護してきたと感心しました。
いろいろ工夫はしましたが、畳に座っている人を車椅子に座らせるのは、私には困難でした。ある時、ぎっくっと腰を痛めたのですが、利用者さんを落とすわけにはいかずにがんばりました。そうして笑顔で通して家に帰り、次の日は休めないので仕事に行きました。立って掃除機をかける仕事はとてもできず、膝をついてはいつくばって掃除機をかけました。利用者さんが「どうしたの」と声をかけてくれましたが、「このほうがゴミが見えるんです。目が悪くなって」と言い訳しました。もう我慢できないと思い医者に行ったのですが・・・。一時的に治っても、すぐに痛めやすくなりましたし、「痛めるかも」とどこかでおそれて仕事をします。これで介護の仕事はできなくなったなと思いました。
今、バイトでは腰のこともあり、他のヘルパーさんには申し訳ないような軽い家事の援助しかしていません。でも、ディ・サービスの手伝いで久しぶりに身体介助をしています。介護技術に不安のあるので勉強しなくてはと、事務所で暇なときに「介護技術」に関する本を棚から借りて読んでいました。技術が足りなくて、腰を痛めたと後悔していたからです。
本を見ていたら、床から車椅子やベッドへの移乗では2人で行う説明が書いてありました。一人でやる場合は、どうしているのだろうと、他の本を調べても2人での介助しか書かれていません。。デイ・サービスでもトイレ介助さえ2人でやっています。利用者さんの安全のためにも難しい場面では、2人で介助をするのが当たり前なようです。でも、施設ではできても、訪問ヘルパーはたいてい1人です。どうしたらいいのでしょうか。
もしかして、1人で介助するには無理がある仕事だったのではと思いいたりました。どうしたって無理な介助をヘルパーさんにやらせるので、みんな腰を痛める。でも、ヘルパーの代わりはいくらでもいるのかもしれません。(代わりがいないことに気がついてきたようですが。)
よく、海外の介護ビデオを見ると、個人の家の中にもベッドまで移乗するための機械が備わっています。介護士の腰を痛めないためだとかの説明もありました。日本では、まだまだ介護士の身体まで考えられないのでしょう。ケアマネさんが計画をするときに、「1人では無理だ」と言える場もありません。腰を痛めたのは、介護技術が下手だったからだけではない問題もあると考えたのでした。
それにしても、その海外のビデオでは、ヘルパーもケアマネも看護師やリハビリの先生が集まって会議をしています。私の経験ではそんなことはありません。ヘルパーだけの会議はあっても、違う職種の人とはないです。そうして、ヘルパーにはきちんと情報が伝わってきません。パーキンソン病の人がした手術がどんなものか、その後どんな変化があるのか、ケアマネさんは知っているかもしれませんが、ヘルパーには報告がなく不安もあります。呂律が回らないのは手術のせいなのか、一時的なものなのか。新聞記事や雑誌で手術内容を知り、「こんな手術だったんだね」と情報を交換し合い、訪問看護士さんとすれ違いざまに具合をたずねます。最近は難病、障害者さんの利用者さんも多いので、病気の知識も必要だと感じることが多くあります。個人で勉強はしますが、会議や研修で全員が同じ情報を持つことが小さな怪我やミスを起こさないことにつながると思うのです。家事援助は、実際は家事をやるだけではないのです。様子をうかがって、励まして、悩みを聞いたりもします。情報が欲しいとつくづく思うこの頃でした。(これは特に、私がたまにしか働かないバイトだからかと思っていましたが、毎日働いているヘルパーさんも情報が欲しいと言っていました。)
そういう訳で、介護士の介護技術だけではなく、怪我に至る問題はいろいろあるなと思いました。一緒にヘルパーの仕事をはじめた30代の女性も腰を痛め、「給料より治療費のほうが高い」からと、仕事をやめました。
そうそう去年、ある男性利用者さんに急に抱きつかれて、びっくりして私が階段から落ちました。「利用者さんを怪我させなくて、良かった」と思い、そのときは気づきませんでしたが、家に帰ると左手がすごく腫れていました。何週間もお風呂に入ると痛かったです。いまでも痣になって残っています。その男性利用者さんはそういう癖があると、後で知りました。前から注意されていれば、私も心構えができていたかもしれません。だから、高齢者の男性利用者さんはそんな人もいるさという感じで頭にきませんが、情報伝達をしないしくみ(会社)に頭にきました。ちょうど新人ヘルパーが入ってきたときなので、「これからはあの利用者さんが、少し触りたがるとはじめに教えて欲しい」とお願いしました。
その他の怪我は、左の親指に熱湯をかけて火傷をし、爪が取れてしまいました。新しく爪がはえてきましたが、爪の表面が波打ってでこぼこです。これは治りませんが、自分の不注意です。慌てて麺をゆでたお湯を捨てたときに、自分の指にかかったのです。なかなか生傷が絶えないヘルパー生活でした。
本人の不注意もありますが、けがをしないための環境づくりは大切なことだと思います。けがをしても治療費もでないのですから、せめて腰を痛めない介護を考えて欲しいです。
昨日の夕方、次男がテレビで「ちびまるこちゃん」を観ていて、私は新聞を読んでいた。アニメが終わり、CMのとき、その夜放映の「今日本がおかしい、自民党VS民主党」の宣伝が流れる。アナウンサーの「意地とプライドをかけて戦う」と高らかな声に、息子がぼっそり「意地とプライドで戦うなよ」とつぶやく。私「・・・」、「そうだよね。意地とプライドで戦うものじゃないよね。政策とか理念で戦うべきだよね。いいこと言うね」と遅れて感心する。息子は「だって、こういう番組の政治家って子供のけんかみたい」と言った。私も嫌なのよ。怒鳴ってばかりで、いつも同じ顔ぶれで観たくない。小学生でさえうんざりしているのだな。息子の目標は「感情を高ぶらせない」ことだった。そんな息子から見ると政治家は、感情を高ぶらせ、大きな声を上げたほうが勝ちのような子供のけんかに見えるのだろう。
さてさて、介護現場の人件費の安さについてニュースが出ていますが、政府は何も対策を考えようとしていません。久しぶりに平日に会社に顔を出して、ヘルパーさん達と話すと、仕事は好きだけど、「保障もなく働いている」ことへの不安を聞かされる。特に、冬の間は運転も怖い。近場ならいいが、訪問先が遠いと往復1時間近くかかる場合もある。その移動時間の時給はないのだ。やはりこれはひどいと思う。私も朝早く、路面がツルツルのときに怖い思いをしたことがあった。事故だけは起こせないとハンドルを握りしめていた。事故の時の保険はどうなっているのかも聞いたが、回答はなかったから、自分で県民共済には入っている。駐車場がない家や狭い駐車場、細い路地ですれ違いが大変な道、訪問介護で一番苦手なこと聞かれたら、運転が下手なので「車の運転」と答える。でも、それには賃金がでない。「移動時間も時給を支払うよう」勧告は出ているのだが、守っていない事業所はまだまだ多いのだと思う。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/kaigo_news/20080310-OYT8T00394.htm
81歳でケアマネに合格して、85歳の現在、現役で働いている方の記事を読みました。すごいですね。
http://mainichi.jp/area/aichi/news/20080309ddlk23070091000c.html
「寒い寒い」と文句を言っていても、春は来るのです。庭の雪が溶けてくると、秋に庭仕舞いしなかった汚れた庭が姿を表わしています。
外を見ると嫌になるので、萩を刈ったり、キーウィの蔓を切ったり、菊やなんやら花の残骸を片付けました。雪が溶けた地面にはミントやクローバーがしっかり緑の出番を待っています。
家を借りたときは、庭は野菜と花に囲まれていましたが、その他の地面は草がきれいに取られた庭でした。でも、私が山の家からミントとクローバーを持ってきてあちこちに植えたので、庭は草だらけです。クローバーが窓の外にないと落ち着かないのです。
庭は好きですが、時間が取られます。山の家でも庭仕事が待っているし、盛岡では本当はやりたくない雑用です。でも、汚い庭を見るのはストレスになるので、きれいにします。お年寄りも同じことをよく言います。それで、這いつくばって草取りして具合悪くしたりします。本当にできなくなると、お金を払って人を雇って草取りも頼むのです。頼めるお金がないと、荒れるに任せています。そういう姿を見ていると、高齢者だけで一軒家に住むのは大変だなと思うことが多いです。
そうはいっても、庭のあちこちに水仙の芽やふきのとうが顔を出すのを見るのは喜びです。画家の熊谷守一が晩年は家からほとんど出ず、庭にあるものを題材に絵を描いていたということです。今は記念館になっている場所は、そんなに広くはありません。その庭が彼の宇宙だったと何かに書いてありました。今日も庭を片づけていれば、死んだカマキリと枯草にあるカマキリのたまご、落葉の下にうごめく虫、花芽をつける木、木の実をめがけて毎日来る鳥が私がいるために近づけないでいます。庭は奥深いものがあります。だから、あまり関わりたくないないような気がするのかもしれません。
熊谷守一美術館 http://kumagai-morikazu.jp/
バイトで「やきもち」などのだんご作りをしていたことがあるのですが、最近は全く作っていませんでした。久しぶりに作ってみたら、おいしいです。
「やきもち」の餡は、味噌と玉砂糖と胡桃を練ったものです。生地は、ご飯をおかゆにして、それに小麦粉を入れてサクッと混ぜます。このおかゆの状態が生地の固さを決めます。今日は柔らかくうまくいきました。生地で餡を包み、お湯でゆで、それをオーブンで焼きます。けっこう手間がかかるようですが、餡さえ用意してあれば1時間もかかりません。餡はたくさん作っておけば冷蔵庫で日持ちします。昔は、余りごはんがあれば作って、囲炉裏で焼いて食べたのだと隣のばっちゃんが教えてくれました。たぶん、人によって作り方も違うのかもしれません。
今日は暖かいので縁側でお茶をしようとしましたら、息子とその友達が来て12個作ったのを食べてしまいました。写真を撮っといて良かった。
『どんぐりの家』の続編である。前半は、聴覚障害者のための老人ホームを作る話。後半は、障害者自立支援法で苦しめられる作業所の話である。
聴覚障害のある知人が前に、心配なのは老後のことだと言っていた。病院や施設などで手話が使える人がいない場合、不利益をこうむるだけでなく、孤独だろうという話だった。
前に仕事で障害者の方の介護をした時に、「元気なあんたに何がわかる!」と言われたことがある。そんなんです。いくら想像力を働かせてもわからないこともある。当事者しかわからないことがある。
そんなとき、昔は「障害者ではないけれど、父の自殺や病気に苦しんできた私をあなたは知らないじゃない。苦しんでいるのは自分だけではない」と心の中で思ってしまいました。健常者といっても、すさまじいい人生を送っている人を見ているので、健常者といって片付けないでほしい。でも、問題のある人間同士が傷をなめあっても仕方ないので、健常者の問題点を主張してもしかたがない。
現在は健康で幸せな奥様でしかない私が、障害のある人を理解するなんてできるかと言われえば、できないかもしれないけれど、そんなこと言っていたら、いつまでも健常者と障害者の壁ができてしまうので、違う相手と分かり合えるという気持ちでいなければいけないかなとか思ったりする。健常者は健常者で生活に余裕のない人は、「障害者ばかり優遇される」と怒る。そういうところを抜け出さないとだめだと思うこの頃だ。
昨日の夕方、次男を床屋に連れて行った。半年ぐらい行かなかったので、だいぶ伸びている。「切りに行こう」と言うと、「今日は予定がある」と抵抗するので、私も怒って「勝手にしなさい」とほったらかしていたが、あまりに伸びて女の子のようなので行くことになった。
床屋に行く途中、息子が、「今日、4年生を振り返って、できたことを書いたんだ」と言う。「なんて書いたの」と聞くと、「感情を高ぶらせなかったこと」だと言う。「なんじゃそれ」と聞くと、怒らない、キレないことらしい。「いやー、たまに怒ったほうがいいんじゃないの。ストレスたまるよ」と私。「できる男は怒らないんだよ。○○君も何されても怒らない」と言う。男の美学でしょうか。これは学校の中でのことで、家では兄によく怒っている。
学校で嫌なことはあるようだ。でも、次男は長男と違ってスポーツ万能だし、なんでも良くできて、いじめられないと思っていた。ただ、冗談とかは下手である。我が家の特徴だ。まじめ過ぎるのだ。テレビも見ないので今風の話題についていけなくてバカにされる。でも大丈夫だと思っていた。
「でも、お母さん。俺が本当に辛かったらわかる?」と前に聞いた。「本当につらい時の合図を決めようか」「どうな合図にしよう」。「次郎が学校から帰ってきて、おやつも食べず、遊びにも行かず、布団にもぐっていたら、大変だと思うよ」ということにした。これは私のことだから。落ち込むと寝る。とにかく寝れば朝が来る。起きていると八つ当たりしそうだから寝るのだ。
「怒らない」こと。また息子に教えられる。床屋に行かないからと怒ってごめんね。話し合えば良かったね。
私の今年の課題は、会議や討論などで「怒らない」で話し合いができるようにすることだ。
今、読んでいた『条例のある街』のこんな文書が響いてくる。(千葉県が「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」を作っていく過程が書かれている。考えただけで大変な仕事だと思った。)
反発もせず、かといって泣き寝入りもせず、「理解を求めていく」ということは忍耐のいる難しい行為だ
今日は、その息子のフットサルの大会がある。去年は優勝したのだったが、私は観に行けなかった。どうやら観に来て欲しいようなので、ディ・サービスは休みをもらって観に行くことにする。久しぶりの試合。それからサッカー世話人の最後の仕事でもある。今日もいい日でありますように。
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条例のある街―障害のある人もない人も暮らしやすい時代に 著者:野沢 和弘 |
長年に渡って知的障害者を過酷労働させていた食堂の記事が小さく新聞に載っていた。お金は週に1回のふろ代を渡されるだけ。給料はなく、残り物を食べていたとあった。現代の日本で、なぜ発見されなかったのか。まだまだ、同じようなことがあるのではないか。ひどい話である。
http://mainichi.jp/hokkaido/news/20080306hog00m040008000c.html
こんな記事も気になる。
http://mainichi.jp/area/shiga/news/20080304ddlk25040445000c.html
財政の節約のためなら、他にやることたくさんあるのではないだろうか。弱いところから切り捨てていくような感じがする。
こういうことが起こっている中、「障害者雇用促進法」の改正案が出される。中小企業にも障害者の雇用を拡大しようというものだが、雇用が拡大するだろうか。障害者を雇用せず、ペナルティ金を払ったほうがいいと思う企業が多いとも聞いた。世界の先進国並みに障害者のことも考えていますよというポーズだけで、なかなか上ふたつのニュースのように、障害者への対策は甘くて、情けない。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kyousei/jiten/20080306-OYT8T00476.htm
『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』を読み終わった。読み進めるうちに年代をみると、リゴベルタ・メンチュウは私と同じ歳ぐらいなのではないかとわかった。グアテマラでのインディオへの迫害、拷問、虐殺がそんなに昔のことではないことに驚くとともに、まだまだ現在でもあることだと思い返す。
長編ドキュメンタリー部門でアカデミー賞をとった『闇へ』のテレビ版の放映を先日観た。米兵がアフガニスタン人に対して行った拷問を追っていくドキュメント。拷問した兵士も登場して語る。末端の兵士は裁きを受けるが、おおもとの原因を作った者には何の裁きもない。反省もしていない。いつものことである。普通の市民がなぜ残酷になれるのだろう。上からの命令で兵士は倫理観もなくなるのか。もともと残酷な素質があるから兵士になるのか。上に気に入られないと生きていけないのが軍隊なのか。やはり肌の違う人間を人間以下に感じるのだろうか。未だ世界は、虐殺も拷問もなくなる世界を実現できない。
本を読んでから調べて、リゴベルタ・メンチュウは1992年のノーベル平和賞を受賞していることを知った。また、彼女が語る自伝に改変があることの批判(実家はインディオの中でも裕福だったとか、教育も受けていたとか)や、一部本人も認めたとかという記事もあったが、リゴベルタ・メンチュウ自身のことは些細なことだ思う。グアテマラで起きていたことは事実なのだから。
「あとがき」にグアテマラに住んでいた日本人の紹介があった。1846年、岩手県藤沢町に生まれた屋須弘平。蘭学医の息子として生まれ、若くして医学、フランス語、スペイン語を身につけた明治時代のエリートだったが、いろいろな経緯でグアテマラに渡り、その地で写真館を開いて成功したということだ。なぜ、彼がグアテマラにとどまることになったのか、知りたい。
昨日の朝、長男が頭が痛いと言って学校を休んだ。熱はあまりない。ただ、クラスでインフルエンザになった子がいるので、「インフルエンザかな」とも思うが、午後まで様子をみることにする。
そして寝ている子どもを夫に任せて、私はヨガへ行き、奥さま方とランチをするという奥さまらしい時間を過ごして家に帰ると、息子が吐いたという。それで病院へ連れて行くことにする。
一番近い、息子が扁桃腺を切った総合病院の内科へ行く。ところが中学生は診れないという。「小児科へ行ってください」とのことだ。内科は高校生以上だとか。息子の体を見ると、小児科はもう似合わないと内科へ連れてきたのだが、仕方なく近くの小児科へ行く。
小児科はちびっこで混みあっていた。風邪が流行っているのだろう。ほとんどが、幼児である。小学生がちらほら。中学生の息子は居心地が悪そうに待合室に座り、テレビの「おかあさんといっしょ」を見ている。
診察では、「インフルエンザの予防注射はしましたか」と聞かれる。「していません」と答えると、「何か理由があるのか」と聞かれる。「別にないですが、たまたま」とか答えておく。本当に理由など別になく、強いて言えばお金がかかることぐらいかな。
インフルエンザの検査をしたが、結果はインフルエンザは出て来なかった。お医者さんは、「熱が上がるかもしれないから、熱さましを出しましょう」と言う。私は「熱さましはいらないです」と答える。「何か、副作用でもあったのですか」とお医者さん。「別に何もないですが、いつも頂いても飲まないで捨てるだけですから。もったいないと思って」と私。「なんで飲まないのか」とお医者さん。「理由もないのですが、高熱でもよく寝ていて乗り切ってしまうので、なんとなく使わずに治ってしまうので」と説明する。「こどもにつらい思いをさせるのなら飲んだほうがいいのに」と少しぶつぶつおしゃっていたが、薬は出さないことになる。その他、吐いたということなので、「整腸剤と吐き気止め」を出しましょうとなった。
帰りの車の中で、「整腸剤と吐き気止めだって、どうする?」と私。「どうせ飲まないから、いらないよ」と息子。「そうよね。いつも1.2回飲むだけで捨てるものね。そのお金で、プリンいっぱい買ってあげる(息子はプリン好き)」という話し合いで、薬の処方箋はもらったものの薬局へ寄らずに帰る。こんなのっていけないことかしら。でも、インフルエンザかどうかの診断が欲しくて病院へ行ったのだ。学校に報告しないといけないからである。インフルエンザだとしても寝ているしかないと思っていた。
「熱さまし」に関して、何か考えがあるわけではない。以前は我が家でインフルエンザになるのは私だった。熱さましも使ったことがある。いっとき熱は下がるが、そのとき汗が噴き出て気持ちが悪い、薬が切れて熱が上がるときも余計気持ちが悪いという経験があるので、自分も使わなくなった。
「インフルエンザの予防注射」は、会社が無料でしてくれているので私は受けている。以前は注射の効果を疑問視していたが、いつもインフルエンザで倒れる私がかからないでいるから、効果はあるのかもと、少し見直している。息子にも受けさせようと思っていた。
昨日つくづく考えた。子供が生まれてからどれだけ病院へ通い、どれだけ薬をもらい、治ってしまって薬を捨てたことだろう。幼い頃は親は心配で薬に頼ってしまうものだ。でも、病気の経過も経験上わかってくるので薬に頼る気持ちも薄れてくる。薬をゴミ箱に捨てることは控えたいと思うようになった。もらい過ぎに注意したい。
我が家には、薬を飲んだことのない人がいる。夫である。病院というものにかかったことがない。私と息子二人がインフルエンザになっても夫にはうつらない。なぜなんだ。本人は「毎日アルコールで身体を消毒しているから」と言うのだが、たばこは吸うし、健診にも行かない。ただ、こういう人が大病してころっと死にそうである。いつも病気ばかりして、入院し病院と縁の切れない私の方が長生きすると夫は言うが、中年になって病気が減ってきたようだ。
あと考えたことは、信頼できるホームドクターが欲しいということだ。このニュータウンにも個人病院はたくさんある。どこかひとつに決めてそこでお世話になったほうがいいかもしれない。
久しぶりに学食でお昼です。(タンメン・400円)
大学の駐車場に車をとめて外に出ると、空が騒がしい。見上げると、白鳥の大艦隊が北を目指して飛んでいました。先頭を飛ぶのは、リーダーという訳ではなく、代わりばんこらしいです。先頭は風の抵抗が強いので疲れるのです。
息子から聞いた話で、本当かどうか分かりません。息子は夫から聞いたそうです。
図書館は誰もいなくて独り占め状態でしたが、学食はにぎやかです。学食にて。
「旧作半額」という幟を見て、TUTAYAに入り込む。それで、悩みに悩んで何枚かのDVDを借りるが、スゥエーデンとノルウェー製作の『キッチン・ストーリー』が面白かった。
物語は、1950年代ごろか。第2次大戦の話も出てくる。スェーデンの家政学の調査団が、主婦の台所での行動を調査していた。新製品開発のためである。その調査を次は隣国ノルウェーの独身男性対象に行うことになる。各調査員がそれぞれノルウェーの男性のもとに送られる。主人公は、調査員のフォルケと被験者のイザック。調査のルールは、会話をしてはいけない、仕事を手伝ってはいけない、客観的な観察方法で行われる。ところが、被験者は台所で料理をしない。隠れて寝室で料理する。そういう意地悪はイザックだけでなく、他の被験者のノルウェー男性たちもしているらしい。
わざと、観察者の前でチョコやお酒を美味しそうに味わったり、天井に穴をあけて、観察者を逆に観察したりのイザックの偏屈な様子が描かれるが、ふとしたことから会話をするようになり、その会話はなくてはならないものになっていく。フォルケはイザックのライフ・ストーリーの聞き役となるのだ。フォルケだけではなく、他の調査員も被験者と仲良くなって酒を飲んだりして、上司にとがめられる。ひとりの調査員は「会話しないで、何がわかるんだ」と仕事を放棄する。
また、イザックとフォルケが親密になっていく様子を見た、やはり孤独なイザックの友人はフォルケを面白く思わない。彼が上司にちくったのか、フォルケは仕事を首になり、スェーデンに返される。クリスマスを一緒に過ごそうと約束したフォルケは国境を1歩でると、仕事の役目は終わったとノルウェーのイザックの家に向かうのだが・・・。最後は悲しく、でも春は来るというお話だった。
映画の冒頭、スェーデンの調査団のキャンピング・カーが国境を越えてノルウェーに入る場面がある。スェーデンでは日本と同じ車は左側通行なのに、ノルウェーに入ったとたん右側通行となる。「右側走ると酔ってしまう」というセリフもある。映画の中では、通行を統一しようという話があるということだったが、現在も右と左で違うのだろうか。
掘り出し物はないか、棚をじっくり見てまわり、やっとカウンターにDVDを持って行くと、カウンターの女の子が「めめさんですよね」と声をかけてくる。何かの確認かと怪訝な顔をすると、「同じクラスのものです」と言う。「ごめんわからない」と正直に言う。私はいつも前の方に座っていて、その周りに座る学生さんは決まっている。その子たちとは挨拶をしたり、試験情報を教えてもらったりするのだが、後ろの方に座っている学生さんは顔を知らないの。しかし、息子の部活の迎えのため、身なりも構わず外に出たのだった。家を出るとき、息子を抜かして夕食を食べた後で、「歯も磨かないけど、誰に会う訳ではないから」と家を出たが、まだ息子の練習が終わらないのでレンタル屋に入り込んだ。春休み、クラスメイトがどこでバイトしているかわからない、きちんとして出かけなくては。
いろいろ用があって町に出かけた。用と用の間に空き時間がある。何か本を持って行こうかと、机のまわりを見渡したら、だいぶ前に「面白いから」と、ある人が貸してくれた本が目についた。春休みになったら読もうと思っていた。その本は、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ マヤ・キチェ族インディオ女性の記録』(新潮社)。あるインディオの女性の語りを人類学者のエリザベス・ブルゴスが編纂したものである。
まだ3分の1しか読んでいないので、本の感想はまた今度にする。びっくりしたのは、この本の中でこの間観た映画『ライラの冒険』と似た話が語られていたことだ。
映画『ライラの冒険』は、本を読まずに観たせいか、その世界の成り立ちが掴み切れなかった。映画の冒頭に分身であるダイモンやキー・ワードとなるダストの説明はあるが、よくわからない。ダイモンは、日本の背後霊とも違うし、その存在意味がわからない。原作を読めばいいことなのだが、今読む気にならない・・・と思っていたら、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』の第3章「ナウァル」の記述がまさにダイモンだった。
子供はみんなナウァルをもって生まれます。ナウァルは人に添う影のようなものです。たいてい動物の姿をしていて、子どもとそのナウァルは並行して生きていくことになります。(本文より)
※ナウァル 分身霊。霊の一方がきずついたり抜け落ちたりすると、他方も病んだり死滅するという。(解説より)
語り手の女性は、ナウァルの説明をするが、自分のナウァルが何かだとかは教えられないと言う。深いところまでは明かせられない大事なものなのだ。
『ライラの冒険』の作者は、このインディオのナウァルからアイディアを得たのであろうか。マヤ=キチュ族だけでなく広く動物の分身霊を持つ文化は知られていることなのだろうか。『ロード・オブ・ザ・リング』も古来からの伝説上の者たちが物語を彩る。ファンタジーには古くから私たちが持っていた物語が語り直されているのかもしれない。インディオの女性の本で、『ライラの冒険』を少しだけ理解した。
本のこういう出会いはときどきある。何気なく読んだ本に、今まさに考えていたことのヒントが書いてあったり、関連する言葉があって、本から本へと連鎖していく。1冊読むと、興味はついつい広がっていく。読まなくてはいけないものが増えていって大変なのだが、やっぱり本が一番好き。
ちなみに、自分のダイモンを知るというサイトhttp://daemon.gyao.jp/blogseal/がある。20問の質問に答えて自分のダイモンを教えてくれる。長男はカラス、次男はオオワシ、私はチンパンジーだった。