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2008年7月 5日 (土)

学費が高い

 学費って高いです。まだうちは中学生ですが、高校生になったらいくらかかるのか、大学に行かせられるのだろうかと考えてしまいます。親が大学なんか行っている場合ではないのかもしれないです。でも、基本的に前の大学の時も自分で稼いで、奨学金をもらってやりくりしましたし、今も夫の協力はあるけれど、どうにか自分でやりくりしているので、息子たちにも自分で何とかしなさいと思っていますが、昔と違って国公立の大学の授業料も上がって、苦学生というのも大変なのかもしれません。夫など、「俺の頃は、国立の授業料が月千円だった」と言うけれど、いつの時代の話なのやらという感じです。

 子どもに奨学金をもらいなさいと言いますが、奨学金って返さないといけないのです。私もずっと返していました。たしか30歳で結婚する前に、まとめて返して終わらせたような記憶があります。借金を抱えて結婚するのが嫌だったからです。でも、仕事に上手くつけなかったりしたら奨学金の返済が重いという人たちも多いのではと思っています。

 ところが、欧米では奨学金というのは返さなくてもいい「給付」というものが多いのだと知りました。参考までに、『現代思想』2007年4月号に載っていた白石嘉治「日本学生支援機構のレジリアンス」の一部を引用します。

欧米の諸国では、奨学金は返還をともなわない給付が中心である。日本の奨学金制度が実質的に貸与だけに限定されていることは、きわめて例外的な事態なのである。たとえば、教育政策研究所は先進16か国のなかで日本だけが奨学金の「給付(grant)」が2005年時点で「0」であり、100パーセントが「貸与(loan)」となっていることを指摘している。(本文に資料あり)

 例外的なのは奨学金制度だけではない。ヨーロッパでは学費は無償か比較的低額であり、米国でさえ約8割の学生は日本の国公立より安い公立大学に通う。こうした国際的な現実がある一方で、2006年3月には、財政制度審議会は2015年までには国公立の授業料が200万をこえる見通しを発表した。しかも文部科学省は、「高等教育の漸次的無償化」を定めた国際人権規約の条項(A規約13条2項c号)への批准の保留を継続しようとしている。

 資料の表を見ると、アメリカの奨学金「給付」額はかなり多いです。たぶん企業の寄付があるのだろうと思います。その中で、日本だけ「0」の数字が並ぶのが異様です。また、授業料も高すぎます。日本は、国連の条約に批准などするつもりもないのでしょう。

 ところで、疑問がでてきます。日本はよく「社会保障費が財政を圧迫している」と言っています。毎年2200億円の社会保障費の削減をかかげています。そうはいっても、OECD加盟国の中でもGNPに占める社会保障費は低レベルということです。教育費も他の先進国に比べたら少ないです。なぜ、他の先進国は日本と同じぐらいの経済力か下であるのに、大学までの教育費を無料にできるのか、美術館や音楽会を低額でできるのか。教育や文化への考え方が違うからでしょうか。なぜ、収益をあげている企業もあるのに、「給付」の奨学金は「0」なのか。わからないことは多いです。

 日本は財政難というけれど、それが社会保障費のせいなのか、教育費のせいなのか、本当のところは何にお金を使っているのだろうか。疑問はふくらむばかりです。「財政難」と言われ、国民はがまんしなくてはいけない。高い授業料は払えない子は大学に行かなくていい、親は子供の授業料を稼ぐため、趣味も嗜好品も減らしてきつきつに生活する。もしかしたら、国連がからむような人権問題にかかわってくる問題なのかもしれないと思うこの頃です。

 毎日のように日本は「財政難」とニュースで報じられます。それって国民のせいですか。(まるで、洗脳されているようです。だから、国民は我慢しなくてはいけないと)。国民が選んだ政治家がやっているから国民のせいかもしれないけれど、食糧自給率は情けないほど低いし教育環境も悪い、そして「財政難」で痛みを分かち合う。政策の失敗を検証などして反省するしくみはあるのでしょうか。わからないことばかりです。わかることは、国連の条約に従うことなく、日本の教育費は上がるだろうなということだけです。そうして、国民のせいでもあるのかもしれません。「おかしいのではないか」と声をあげずに、言いなりになる私たちがいます。さて、どうしたらいいのでしょう。

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