2008年5月 2日 (金)

在宅福祉とは何だろう

 「後期高齢者医療制度」の説明や記事を読むと「在宅福祉」や「在宅介護」という言葉が出てくる。誰もが自分の家で死にたいのだという話なのだが、「在宅福祉」の中身を真剣に論じられてはいないような気がする。「家で死ぬことを望んでいる」。でも、今の介護保険でどこまで家族を支えられるのか、家族の所得の差によっても在宅の意味合いが違ってくる。あまり真剣に論じれば本当の国の意図がわかるとまずいのかな。

 ずいぶん前の本だが、図書館で読んだ『介護問題の社会学』(春日キスヨ著 岩波書店)に次のような文書があった。

家族の負担削減とノーマライゼーションの理念を掲げて推進されつつある「在宅福祉政策」をとってみても、従来の、家族と女性への介護負担の偏りを解消するきざしはみえない。それは、形を変えながら、むしろ、強化される側面すらもっている。宮島は「コミュニティにおける(in)福祉」という社会的地域福祉を意味したノーマライゼーションの概念が、介護費用の抑制という政治目的の前に、「地域による(by)福祉」に変質し、結局は「地域=家庭=女性による福祉」となっていく事実に触れ、次のように言う。「日本に限らず、欧米の先進高齢諸国でも、その(在宅福祉政策の)実態は、私的な個別的な福祉、つまり、家族による介護を意味し、ほとんどの場合、女性の家族成員(妻・娘・嫁など)を暗黙の主介護者としていること、換言すれば伝統的性別役割分担に依存している」(宮島、1992、52頁)

※宮島洋、1992、『高齢化時代の社会経済学』、岩波書店

「家族が介護するの当たり前じゃない。私だって主人の両親を介護してきたのよ」という、どこかの民生委員さんの言葉が思い出させる。国はこういう女性をおおいに活用していく。「地域福祉」が今の流行りなのだと大学の先生が話していられたけれど、民間活力、ボランティアの活用などなど、国の思うつぼだという感じがするのは私がへそ曲がりだからだろうか。まわりが「家族が一番」とうたわれると、大学でもだんだん自信がなくなってくる。

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2008年3月12日 (水)

子供のけんかみたい

 昨日の夕方、次男がテレビで「ちびまるこちゃん」を観ていて、私は新聞を読んでいた。アニメが終わり、CMのとき、その夜放映の「今日本がおかしい、自民党VS民主党」の宣伝が流れる。アナウンサーの「意地とプライドをかけて戦う」と高らかな声に、息子がぼっそり「意地とプライドで戦うなよ」とつぶやく。私「・・・」、「そうだよね。意地とプライドで戦うものじゃないよね。政策とか理念で戦うべきだよね。いいこと言うね」と遅れて感心する。息子は「だって、こういう番組の政治家って子供のけんかみたい」と言った。私も嫌なのよ。怒鳴ってばかりで、いつも同じ顔ぶれで観たくない。小学生でさえうんざりしているのだな。息子の目標は「感情を高ぶらせない」ことだった。そんな息子から見ると政治家は、感情を高ぶらせ、大きな声を上げたほうが勝ちのような子供のけんかに見えるのだろう。

 さてさて、介護現場の人件費の安さについてニュースが出ていますが、政府は何も対策を考えようとしていません。久しぶりに平日に会社に顔を出して、ヘルパーさん達と話すと、仕事は好きだけど、「保障もなく働いている」ことへの不安を聞かされる。特に、冬の間は運転も怖い。近場ならいいが、訪問先が遠いと往復1時間近くかかる場合もある。その移動時間の時給はないのだ。やはりこれはひどいと思う。私も朝早く、路面がツルツルのときに怖い思いをしたことがあった。事故だけは起こせないとハンドルを握りしめていた。事故の時の保険はどうなっているのかも聞いたが、回答はなかったから、自分で県民共済には入っている。駐車場がない家や狭い駐車場、細い路地ですれ違いが大変な道、訪問介護で一番苦手なこと聞かれたら、運転が下手なので「車の運転」と答える。でも、それには賃金がでない。「移動時間も時給を支払うよう」勧告は出ているのだが、守っていない事業所はまだまだ多いのだと思う。

 http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/kaigo_news/20080310-OYT8T00394.htm

 http://www.caremanagement.jp/news+article.storyid+2069.htm

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2008年2月18日 (月)

道徳強化

義務教育で道徳が強化される。それにはこんな理由があると刈谷剛彦が書いていた。

「子ども個人や家庭ごとにふさわしい教育を選ぶことが推奨され、公教育を含め、教育サービスは、ますます個人にとって意味をもつかどうかが問われるようになる。こうして、選択の時代は、教育の個人化を進めることになる。
 ところが、これでは社会がバラバラになりかねない。そこで、教育の個人化を進める一方で、社会のまとまりを強めるための教育を求められるようになる。国や郷土を愛する態度の涵養や、規律意識を身につけさせようという動きは、教育の個人化とセットになった改革の動向である。意識の面でまとまりを強めることで、格差社会にも対応しようとする動きである。」
『欲ばり過ぎる日本の教育』2006年 刈谷剛彦・増田ユリヤ (講談社)

 だいたい、そういことだなというのは一般国民にも見える。なんで政財界がやっきになって「国を愛する」心を育てたいのか、少し考えれば子供だってわかる。
 ニュースで政治家や官僚の汚職や品のない言葉、企業の不正を見て、子どもたちは何を感じているだろうか。結局「お金儲けしたほうが勝ち」と思わないだろうか。大人の世界が汚いのに、子供たちに清く美しく生きよと言っても効果がないと思う。まず政財界の顔を品格のあるものにして欲しいなぁとテレビを観ていて思うこの頃である。

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2008年2月17日 (日)

学習指導要領 改定案

 いっぱい書いたのに、操作を誤って消えてしまいました。もう机を離れないといけない時間なので、もう一度書く時間もないです。

 こちらを読んでください。 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080216

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2008年2月14日 (木)

学力低下

 前回、都会と地方の学力格差が開くと書いたが、地方の一公立学校の中での学力格差が大きくなっている。公立学校に頼れないなら塾に行かせられる家庭はいいが、塾に行かせたり、家庭教師を頼んだりできない家庭も多い。明らかに勉強のできは家庭の経済力に比例しているような気がする。経済力プラス家庭の文化水準の高さかもしれない。

 OECDが実施した国際学力調査(PISA)で、日本は順位が落ち、マスコミは「学力低下!」と騒ぎたて、子供たちの学力を向上のための対策が考えられる。そのPISAで1位を取るのはフィンランドである。フィンランドに学べとばかりに、フィンランドの教育方法を真似してもなかなか効果は上がらない。なぜなら、根幹にある国の理念が違うからである。

 フィンランドは、善意で子供たちに平等なスタートラインに立てるように教育しているわけではない。社会民主主義や人権の思想は強いにしても、北国の自然が厳しく人口も少ない国がグローバル時代に国が生き残る戦略として、「教育」に力を入れた。その予算のかけ方が違う。新自由主義にのっとって、規制緩和と地方分権をすすめる。教科書の検定はなくなり、学校や先生が自由に教科書を選べる。国はおおまかなアウトラインを示すだけで、授業内容は市町村に任せる。自治体は予算が余れば、まず教育に回すのがふつうだそうだ。日本も新自由主義路線だそうだが、教育に関する規制緩和の考え方が違う。

 フィンランドは、給食も無料だそうだ。福祉が充実しているのは税金が高いからだと言われるが、大学まで無料、医療費は無料、母子家庭になろうが、障害者になろが、老人になろうが、安心して暮らせる保障があるのなら、貯金をむやみにしたり、多額の保険をかけたりしなくていいだろう。そんな暮らしがあるのなら、たくさん税金を取られたっていい。これで、国の経済も伸び、国際的評価も高い国になっている。子供たちとフィンランドの特集をテレビで見ていたら、「ずるいじゃないか」と言った。同じ人間なのに、こんなにいい環境で学べるなんてということだが、ちょうどアジアの問題を議論する講義にもでていたので、同じ人間なのに、教育も受けられない子どもたちとこの北欧の差に愕然とする。アジアは別物なのか。あそこまで到達なんてできるのだろうか。できないだろうな。北欧なんて別に目標でもないのだから、政財界の人たちは。

 フィンランドの教育は国の要という意識が強い。だからといって、長時間勉強しているわけではなく、授業時間は日本より短く、塾はなく、家庭学習も日本と同じぐらいだ。先生も自分の授業が終われば、夕方家に帰る。部活や就職の面倒は見ない。それはそれで専門の人がいる。夏休みは2か月たっぷりとる。その間、学校へは来ない。(ただ、研修などには出ているようだ。)これで、世界一の学力なら、日本はどう真似したらいいのだろう。

 塾がないと驚くが、こんなに塾があるのは日本とか韓国ぐらいかと思う。なんでこんなに勉強しても英語は話せるようになれないし、ユーロに円は負けているし・・・。負けてもいいんだと思う。日本なんて、もとから小国だったのだ。もう一度謙虚に力をつけていかなくてはいけない時期なのではと思うのだ。

 学力をあげるために勉強時間だけはのび、学校や塾に拘束される時間は長くなり、「フィンランドのように読書習慣をつけましょう」といっても、ゆっくり読書する時間もなく、ゲームやバラエティ番組でストレス解消をするだけだ。

 日本ももう少し公立学校に力を入れ、国が自信を持って世界に示せるようにして欲しい。かつての日本は基礎教育が世界に誇っていたはずだ。それがどこからか転換した。

「学力低下」は、「ゆとり教育」のせいだと言われるが、そうだろうか。ゆとり教育のせいにしているだけで、各家庭の格差、そのための諦めや先生の質の悪さなどがあげられないだろうか。先生の質が悪くなっていくのは、良く言われるように先生の仕事がハードだからだとも考えられる。あと、教員資格が簡単とかもあるかもしれない。日本は世界の中でも先生は長時間労働だが、実際に教科に関わっている活動は他国より少ないという結果も見た。では、日本の先生は何に忙しいのだろう。部活や進学指導や問題ごとの対処やたくさんの書類いろいろあるんだろう。そこらへんを見直さなければまずいけないのではないか。

 これらの話題は、大学の講義を通していろいろな論文を読んでの考えさせられた。先生から一般的にわかりやすいとして紹介された本の最後に次の文書がある。

 日本とフィンランドの教育は、いまやまったく逆向きに動いているように見える。ならば、この差はどこからでてきたものだろうか。政財界が未来の変化を途中で読み変えたのか、教育界が詰め込み主義的考えを根本的に改めていないからなのか、子どもたちの教育環境が劣悪だったからなのか。

 ひとつだけ、忘れていけないことがある。「総合的な学習の時間」を特徴とするカリキュラムの作成責任者にあたる、当時の教育課程審議会会長だった三浦朱門のことばは衝撃的だ。

「学力低下は予想し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審はやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」

 なかなか含蓄のあることばである。しかし、国際学力調査をしたOECD教育局の方は次のように言っている。

「教育の質が悪く、どういった家庭的な背景・出身かということが大きな影響を及ぼしているということでは困る」

 OECDが教育調査をしているのは、学力の競争をしているわけではない。これからのグローバル化の中で生き残れる力を一人一人にもってもらいたい。そういう国が生き残れるからだ。

 日本の子どもたちは、正直旧態依然の教育感の学校の中でよくやっている方だと思う。でも、いつまでもできない者は切り捨てるような感覚が政財界にあるのなら、日本の発展も危ういかもしれない。もういろいろな面で日本と言う国の資産が目減りしている。それは教育力という点からもいえるかもしれない。

 まだまだ、資料がたくさんあり言うべきこともあるのだが、これくらいにしておきます。

 引用した本は、下記のものです。

 

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書) Book 競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

著者:福田 誠治
販売元:朝日新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 あらら、こんなことを書いていたら、仕事に行く時間だわ。先週土曜日に仕事が終わってから、「来週から春休み」と喜んだら、主任が「ちょうど人手が欲しかった」と喜ばれた。今日は新しく入ったヘルパーさんの同行訪問だ。訪問先はそれぞれやり方や人の癖があるから、一緒に行って伝授するというものだ。いつもは一人でやる作業も同行だと楽しい。私が教える立場なのに、他のヘルパーさんの料理の仕方を見ると、勉強になること多いのだ。

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教育現場は?

 私自身は変わり映えのないたんたんとした日常を送っているが、仕事や友人たちはドラマチックに動いていて、書きたいが他人の個人情報なので書けない。

 これも書いていいかどうか迷ったが、書こう。

 先日、中学の息子の保護者会へ行った。仕事で授業参観は出られなかったが、学校で今何が起こっているのか知りたかった。学校についたら、知り合いの耳の不自由なお母さんが帰るところだった。「通訳頼む親しい人もいないので、帰ろうと思った」と言うので、「私がするから」と二人で教室に戻る。

 ジャージの変更や子供たちの様子が話された後、「下駄箱の靴に画びょうが入れられるいじめ」についての話になる。その対策として、先生は「学校の張り紙の画びょうを取って、テープに代えている」と話される。保護者が教室の中の掲示物を見まわす。たしかにテープになっている。先生は「まだ1年生のところしか作業が進んでいない。じょじょに他の所の画びょうも取るが、私がこの学校に来た時から貼ってあるものもあって・・・」とお話が進む。

 私は、知人に筆記で通訳する。知人「画びょうを取っているの? 学校中の? 取ったって家からいくらでも持ってこられるじゃない」とノートに書いている。私「いやー冗談ではなく、本気みたい」。知人「おかしいね」。などとノートでぺちゃくちゃおしゃべりしていたら、前の席にいたお母さんににらまれた。たぶん知人が耳が聞こえないと知らない人もいると思う。中途障害なので、きれいな発音ではっきりしゃべるから。それにしても、画びょうを取って歩くとは、先生も御苦労さまだ。誰かが「ほかに対策はしていないのですか」と聞かれた。「休み時間などに、下駄箱付近を見回っている」とのことだった。私もひとこと言いたかったが、やめた。今までの学校の様子を聞いたり、先生の話を聞いた限りで、「この学校だめだ」と思ったから。息子に言わせれば「先生たち終わっているよ」であった。生徒たちが先生を信頼していないので、荒れはおさまらない。私もできるだけ、先生の悪口は言わない。「先生も大変なのよ」とは言うが、なんだかどうしてか先生たちが仕事できない人たちがたまたま集まった不運な学年としかいいようがない。なんたって、登校拒否になった先生が二人いて、理科などの主要科目が受けられないことにもなった。何か月も。親の対策は塾に行かせること。うちは塾には行かせていないが、知り合いの塾の先生から問題集をいただき、「学校なんて当てにしないで、自分で勉強するように」と言ってある。

 たまたま不運な1年だったのであろうか。それとも先生の質が変わってきたのか。

「教育原理」の授業で、先生が「フィンランドでは、先生は定年まで同じ学校にいるのが一般的だが、日本では先生が何年かごとに変わるのはなぜだろう」と問いかけた。私は言いました。「先生に当たりはずれが大きすぎるから、固定なんかされたらたまらない」。フィンランドのように先生の質を国の教育相が鼻高々に自慢するお国と違う。なんだか、都会での公立離れや塾に行かせる理由がよくわかった。とはいっても地方では、私立中学なんてないから、学校は選べない。教育サービスを選ぶなんて都会での話だ。公立の質を高めてもらわないと、都会と地方の格差は広がるばかりではないか。

 いじめ対策が「画びょうを生徒の目の前からなくすこと」と思っている先生。「最後は帳尻合わせるから、教科の先生がいないことを騒ぐな」と言う校長。もちろん教育委員会へ文句を言いに行った親とか、学校に抗議もあったらしいが変わりもしない。何がどうなっているのやら。大学の後期は授業で教育制度などの勉強をしていたが、理念と現場の格差は広がるばかりのような気がする。

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2008年1月22日 (火)

気になる人

 何だか身辺忙しくしていたら、今週から試験がはじまります。もう諦めたい気分です。今回はやる気が出ない。困ったことだ。暗記しなくてはいけないことが多すぎて中年にはつらい。

 土日は久しぶりに子どもサービス。といっても、土曜日は長男のテニスの送迎。冬場は遠い所にある屋内テニス場を借りて部活をする。いつもはコーチやお友達の車で行っていたのだが、私が息子と友達を連れて行くことにした。体育館がある施設には暖かいラウンジがあるというので、そこで待っている3時間勉強することにした。デカルトの『方法序説』をまとめないといけないのに逃げまくっていた。家だと逃げる口実が多いので、そういうときはなぜか喫茶店など、コーヒーとざわめきがあるところのほうが集中できる。

 コーヒーとお菓子を置いて集中して書きまくっていたら、隣に初老の男性がテーブルについた。テーブルに買ってきた牛丼弁当とお惣菜を置く。もう一つのビニールにカップ酒が何本か入っている。嫌な予感がした。ところがその男性おもむろにズボンを下げる。そうして腹に注射のようなものをする。インシュリンの注射かしら。糖尿病なのかしら。ズボンをあげ、溜息をつくとカップ酒を手に取る。でも、手が震えている。手の震えで口までカップ酒を持って行くのが大変だ。唇にカップが触れたとき、カップからお酒が滴り落ちる。そんなふうにつらそうに飲んで、まず1本空けてしまった。それから弁当を食べる。手が震えて箸がよく持てない。次に2本目のカップ酒。よほど、「あまり飲まないほうがいのでは」と止めたかったけれど、こういう場合、他人がどうのこうの言えない。アル中でもあるかも。家で飲めないので、こんなところでお酒を飲み、糖尿病に悪そうなものを食べているのかも。しかし、こんなにもつらそうにお酒を飲む人、まずそうに物を食べる人をはじめて見た。3本目もいくかと見守っていたら、息子が練習が終わり「腹減った」と呼びに来た。デカルトは、「すべてのひとに良識は公平に分け与えられているもの」というけれど、その良識をデカルトのように「よく用いることが出来ない」のが人間というものでもある。

 日曜日はスキー場。息子2人とその友達を連れて行く。もちろん私は滑らずにレストランでお勉強。テーマは「児童福祉」。スキー場は混んでいてたくさんの家族が来ている。それぞれ微笑ましい光景がまわりでざわめいていた。そのざわめきの少し前、お昼前の空いている時間に、女の子の泣く声がした。幼児だろう。「子供ってよく泣いたな。今では泣きもしない」と懐かしく聞いていたら、なかなか泣きやまない。そうして、その泣いている女ん子の母親が私の座っているテーブルの端に腰掛け、女の子が追いかけてきた。そうして訴える。「お母さん許して、許して。私がお母さんの気持ちを考えなかった」と何度も言う。お母さんはただ窓の外を見ている。髪の長いきれいなひとだ。ときどき何か言っているようだけど、聞こえない。子供をなぐさめているわけではないようだ。女の子はいつまでも「許して、もうしないから」と言い続けているから。短い時間ならよくあることと思ったが、1時間近くその様子が続く。私だけではない、他のテーブルに座っている人たちもちらちら視線を向けているのがわかった。その時読んでいる本がそうだったので、家で虐待してないだろうか、と不安になってくる光景だった。だんだんレストランが混んできて、息子たちが「腹減った」と戻ってきた。まだしくしく泣いている女の子をひっぱってお母さんはどこかへ行ってしまった。それからも気になる気になる。ぜんぜん教科書が読み進まなかった。

 ざわめきの中の勉強は集中できるけれど、この間は隣の男女の別れ話に耳がダンボになり集中できなかった。そうして図書館で勉強すると眠くなる。コーヒーと適度のざわめきが欲しいのに、最近ドラマチックな人間模様が多くて勉強できない。という言い訳はやめてお勉強しなくては。

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2008年1月16日 (水)

熊が森を守る

 去年の熊の捕獲数が減ったとテレビのニュースでやっていた。去年の秋はドングリが豊作で、熊が里に下りてくる数が少なかったのではと解説していた。

 それを観ていた夫が「今まで捕獲し過ぎたのではないか」と言う。「でも、ほら捕獲しても麻酔銃でしょ。山に帰してあげているいるよ」と、ニュースの映像は熊を山に置いてくるところだった。「いや、けっこう殺しているよ」

 夫は「熊がいなくなったら、東北の山はおしまいだ」と言う。北東北にはイノシシはいないので、山で人間が恐いのは熊だけだ。その熊がいなくなったら、茸も山菜も取り放題で山に入って行くし、山は荒れるよということらしい。

 山の家は、まわりに熊がうろうろしている。庭にうんこをしていく熊もいる。それでもちゃんと気をつければ出会うことはない。遠くでは見かけるけれど。確かに歩くときに怖いこともある。ただの散歩なのに声を出して歩くとか、「私は今お散歩中だよ」と森の熊に合図しなくてはいけない。どっかで熊は見ているのかもしれない。

 熊がいなければ山が荒れる。「もののけ姫」を思い出した。熊は山の最後の守り神なのだ。私たちがいない山の家の庭ではかもしかが遊んでいるそうだ。

   米を食う熊のせつなさ雲になる

 ずいぶん前の句だが、熊が田んぼの米を食いに来たと話を聞いて作った句。どんぐりが不作なのは山奥で木を切っているからだ。山の家の奥の山も切られるだけ切った。けっこうやりたい放題だ。しかし、それで食べている人が村には多い。ドングリが不作ではなく、ブナや楢の木がなくなってきているといったほうがいいのかもしれない。

  http://www.geocities.jp/biodiversitynetniigata/topics/kuma-gensyou.htm

  http://scienceportal.jp/news/daily/0704/0704241.html

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2007年9月10日 (月)

いいお産

 年に1回の子宮がん検診に行ってきた。行った産婦人科は古い建物で、医者もお歳である。去年はメルヘンチックなN産婦人科に検診へ行ったら、混んでいたので、古そうなY産婦人科に行ったのだが、思ったとおり空いていて病院にいた時間は30分だった。ちょうど若いお母さんが赤ちゃんを連れて退院するところだった。若いお父さんが迎えに来ていて、院長先生が声をかけていた。こちらも微笑みたくなる風景だ。

 新聞に「いいお産」という本の広告があった。「いいお産」という言葉が嫌いだ。なぜかというと、たぶん私は「悪いお産」の見本のようなお産しかしていないからだと思う。(二人とも帝王切開だから、正確には手術でお産ではないかもしれない。)

 2回の流産の後、3回目の妊娠も切迫流産で入院。私の自慢は受精したことがわかることだ。受精してしばらくすると、お腹に違和感があり、心配すると不正出血がある。病院へ行くとまだ胎児など確認もできないが、妊娠反応がある。すぐに入院となる。そうして、寝たきり生活で持ちこたえて、出産の日を待った。夜中に破水して病院へ。陣痛が来ないので、陣痛促進剤を打つ。その陣痛が痛い。でも薬が切れるとなんの反応もなくなる。そんなことをしていて2日目に胎児が危ないからと帝王切開する。看護婦さんが「危ないところだった。早く帝王切開すればよかったのに」ともらしていた。先生はどうにか下から産ませてあげたいと思っていたのだろう。とにかく長男はしばらく保育器に入っていたが元気だった。

 次男を妊娠したときも、お決まりの切迫流産で入院し、後期は切迫早産で入院。胎児が下がってきているので、日取りを決めて帝王切開する。そのとき、私は先生に「もう痛いのはいいですから、さっさと出してください」と言っているのだから、悪い妊婦かもしれない。

 そのころ私のまわりはエコな人たち(もしくは自然主義の人と呼んでいた)がいて助産院や自宅出産していた。もちろん母乳主義だ。私は、母乳があまりでなかった。そのうえ、第2子を産んだあと高熱が出て、また1か月以上入院していたので母乳をあげるどころではなかった。元気になった頃、赤ちゃんを夫が連れてきたのだが、次男はパンパンに太ってかわいくなかった。夫と義母がとにかくいっぱいミルクを飲ませていたらしい。

 エコな人は、「ミルクだと、ぶよぶよになるわよ」と私に言った。あと、切迫流産をとめる薬を使った子供には犯罪が多いというアメリカの研究があるのだとか。そんなこといわれても、息子はすでにデブデブだし、将来犯罪者になるかもしれないからと言われてもどうしたらいいだろう。

 あれから10年以上経ち、息子はデブデブではない痩せている。今のところ犯罪者のほうはわからないが・・・。

 しかし、エコな人たちの思いやりのない言葉に少し傷ついた。年をとった母だから、心の中で「この馬鹿」と思っていられたが、若い帝王切開のお母さん余計なことを言ったら、落ち込むだろう。なんだか、自然分娩をしている人たちは優越感を持っているようで嫌だった。きっと、自然食で育てて、自然と触れ合って「いい子」になっていくのだろう。もちろん私のひがみだ。

 自然分娩といえば、入院している時にタクシーの中で生まれてしまった、というお産があった。これこそ自然だ。また、隣のベットに3人目を産む看護士さんがいた。一人でベットに座って呼吸をしていたと思ったら、歩いてどこかに行った。しばらくして歩いて戻ってきた。「今、産んできた」ということだった。夫も親も誰も付き添っていなかった。それからお腹が空いたと、饅頭を猛然と食べてから熟睡していた。夜になって家族が訪ねてきた。これには憧れた。あんなふうに産めたらいいなと。

 昔のお産は自然だったというのは、こういうことだと思う。ドタバタと自然に産んでしまったり、あっさり産んでしまう。「いいお産」というイベントではない日常茶飯事だ。

「地球交響曲 第5番」(竜村仁監督)だったか、ある助産院での分娩シーンがあった。そこは白く清潔で純粋なもので包まれていた。その清潔さにたじろいてしまった。しかし、こういう「いいお産」は、イベントとしての楽しみ方のひとつだと思えばいいと最近は考えるようになった。

 デブデブと言われてもかわいかった赤ちゃんは、足は夫より大きくなり、背ももうすぐ親を超すだろう。過ぎてしまえばお産はただのお産である。自宅出産でもなくあまり凝りに凝った医療機関でもなく、今日検診を受けたような町医者が私の好みだなと思うのだった。

 

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2007年7月 6日 (金)

復活です。

 このブログを復活しようと、開こうとしたらパスワードとか忘れてしまった。何個かいつも使うパスワードを入れても開かない。私が考えそうなことを探ってようやくパスワードがわかった。パスワードはわかりやすいものにしようと反省した。

おひさしぶりです。などといっても誰も見ていないのですが、また不定期にぼちぼち書いていきます。よろしくお願いします。

「めめ」とは、大学でのあだ名? オリエンテーションの合宿で自分にあだ名をつけるのだけど、「めめ」と名のったら、今もクラスメイトが「めめさん」と呼んでくれるので、「めめ」を名のることにしました。

もう少しパソコンいじっていたいけど、今日は2人分のお弁当を作らなければいけないのでこのへんで。特大オムライスを作る。ついでに自分のもね。

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